角川書店から昨年末の12月25日に出版された青山真治の「月の砂漠」を、学校帰りの古本屋で見つけた日の二日ほど前の朝、妙にクリアな夢をソファーで辿り直し、確かに当時から映像に関わっていた大学の後輩のこれまでの仕事の幾つかを手渡されるということの、これまた飛躍に満ちた唐突な印象の再現の余韻が、点と点を結ぶように、その「月の砂漠」を一気に読み干すことに繋がったように思える。シニカルに選んだ映画の幾つかは、眼精疲労を労るささやかな思いつきだったが、その半ばに10月から連続して上映されるカール・ドライヤーのイベントを知って、いつか観た「裁かるるジャンヌ」が唇に残り、サバカルルとサバクノツキのサバが脳裏に併置したまま固まった。地下鉄の中で「水の机」というイメージが降り、この年齢でオカシな響きだが、新しい方向がきまったのだった。
夢に出た男は、シマノという片時もカメラを離さない男で、学生の時にカメラを持って足にロープをつなげてたしかラフォーレで飛び下りた。青山の「月の砂漠」のキーチに何故かぴったり重なった。しかし、青山の「月の砂漠」は、パゾリーニのテオレマに砂糖をかけたヨーグルトにしたような不愉快さが残った。言葉が映像を引きずる場合仕方がないのだろうか。映像作家の小説など読みたくないと思うのだった。