リトルフォレストを再び観て、流石に原作者が気になり、五十嵐大介(1969~)を調べて捲る時間があった。画家を目指した青年が漫画家となって成功した図を俯瞰すると、生真面目な独考の姿が長々と横たわった「オタク」的なこの時代の「雄」の真摯な形のひとつと見受けられる。同時に観ていた「途方に暮れる」状況をそのまま寓話化させたミッドナイトスペシャル(Jeff Nichols 1978~)の、唐突な事実に照応するしかない身もふたもないリアリティー(目的の為にねじふせていく手法とは真逆)が、尾をひいてカラダに残ったのは、つまり「誠実な眼差し」とは何かを、ここでもまた促されているように思えたのだった。
真実と陰謀に惑わされるのは、システムには隠蔽があるからだが、唐突な事実性という出来事への認識を、人間的に行うことが先決というわけだ。
小川村から長野市まで軽々と走ったと勢いづいた夢の翌々日に長野マラソンだったと、遅延して知り、走れるわけでもないのに、実際に走った高揚感に満たされた夢が示唆する行方を、途方に暮れながら見つめ直さねばなるまい。
標高千メートルから七百メートル下り上る気圧の変化で音響が変異する音色を繰り返し車の中で聴いていると、精神は古びた軀からぶれて離脱することがあり、速度そのものになって車体の外側で、残雪のまだのこる山を見上げている。