異なった無関係の事象(記号・様態・物質)を同一平面上に、その無関係性を保つように併置する技術というものを欲しているわけではなく、事象ごとの特異性を確定的な約束事として置く手応えは不十分であるけれども(むしろ離反傾向がある)、長年片手落ちにて転がしてきた「併置論」の始末としては明快な顕われとなった。「余白」に関して扱いが恣意に傾くのは、うんざりする程の反復鍛錬が不足しているからにすぎない。かといって盲目的に固執して時間を大量に注ぐことも違う気がしている。つまらない意匠へ狭窄するだろう。乾燥を待つ間、濡れた材に触れ、切断の粉塵を浴び、首を傾げて眺める過ごしそのものが、愚図な気質に戻る清涼感があるので、これは棄てる必要はない。ところで、異なった事象として、自系よりくみ上げたもののみに頼らずに、他系へ寛容をひらけば、つまり、史的時系併置も可能なのであり、取り組みながら消える事の無かった、デュシャンやらミケランジェロやら(オキーフ・カラヴァッジョ・クーニング・ジャスパー=ジョーンズなども近寄せて)の影は、他系事象として併置するなどといった、些か野蛮な荒唐無稽へ身を滑らせる時間はまだあるかと、脱レイヤー的(*透明性)な併置図をスケッチブックに臆病に徴た。平面ばかりでなく、振り返ってみれば、構造体の上にゴムボールを乗せ、紐を垂らしたまま、なかなか取り外さなかった。重い事象などを浮かべる。
併置景を眺める二つの目玉が、さてと我にかえり、その俯瞰自体の精査、成熟へと手を伸ばすことが、その先にある。
*併置論における透明性(多層性)の感触は、構造的に別モノを顕すということや事象相互の関係性をあぶり出すことで逆説的に秘匿の演繹(風評に似ている)を導くような事象間の展開を切り捨てて、個別事象の明らかさをそのまま固定(静止)させるということ。これは例えば、料理にしろ衣服にしろ物質にしろ「折衷」とは統合や融合ではなく併置にすぎないという批評に似る。