ある種の植生論あるいはハウスシェアリングへと辿ったのは、ふと眺めに止まった三本松の野菜売り場の建物がイメージを浮かばせる契機となったからだが、冬から春の造作の延長がこれに結ばれて、端的明快な形象となる場合のシルエットも何か具体的な展望を求めていたようだったからだと思われた。
シェアルームも然りシェアハウスという事自体が認識においても実践においても遅延的である此の国に於いて、高齢化社会の世代格差というより首都圏へ離散する核家族崩壊からくる世代断絶的共同体の形態は特にローカルな地域に於いて家土地の存続不能事態が顕著になり、共同体の再構築を成長期と同じ手法で繰り返すのは不毛であると云う現実がある。
家族とか家庭ということが短期消耗型を踏襲する意味合いに太い倫理や必然性が伴わない以上、「新家族」を牽引する環境がまず示される必要があると思われた。つまり老いた親の面倒を医療看護施設に放り込む団塊の世代以降を考える時、実践的世代は生きる手法として環境を再構築するだろうし、その時、ひとつの契機として、経済的且つ余裕のあるハウスシェアリングという合理性は選択肢にあっていいが、伴う精神的なリスクも当然考えられ、躊躇も生まれる。早い話はモデルケースが展開すればよいのであって、それが想像力を具体的に加速する。問題は少なくないが、夏川から見下ろす未来型自治体の光景にこれを重ねると、思いがけない程豊かな未来が更に膨れる。
最小ユニットを「独り」と査定したシェアハウスの形態は個別の部屋によってプライバシーと個が守られるにすぎない。緩い浸透性を持つかの錯覚が家庭でありまた家族であったという感覚から、ややもすれば緊張感のある部屋の外となり、風呂上がりに一糸まとわずリヴィングに寝そべることもできなくなるかもしれない。つまり、ハウスシェアリングをする者は単独者であるということがその可能性の多くを持つだろう。というのも、子が育つなりして離散した都会のマンションの夫婦ふたりが地域社会へ下ってハウスシェアリングへ関心の矛先を向けるには、なかなかその組み合わせ(シェアカップリング)自体が関門となりむつかしい。これを突破凌駕する優れた環境なり、シェアハウスの構造、空間がまずなければ、シェアという馴染みのない共有は、その実践自体可能性が無いに等しい。
というわけで、その環境、構造へ思念を巡らせるのだった。