連休に入ったので、仕事を企画準備に絞り、断片としてのテキストモーションのランダムセレクトスクリプトをgentaに頼み、91の断片制作をようやく終了。煩悩の数迄制作することに決めてから、インターバルモーションのシステム下での稼働状態チェックを、ふたたびgentaに依頼。CPUに依存するスクリプトなので、気がかり。時間的余裕があればname_beyond挿入まで辿り着きたいのだが。
記憶の意味は、抱える時点で移り変わると実感しながら、これも長大な時間を注いで、セルフーワークの映像DVD暫定書き出しを行う。1986年からの映像を全て洗い出すことは流石に時間的に無理だが、それでも、できるだけ眺めていた。抽出に手間取ったが、このおそろしく鈍重な歩みの作業の中で、自身の文脈的スタンスを明快にできたことは成果があった。
映像の示す力は、記憶下では、非常に固有であり、あるいは特殊でもあるが、記憶としての眺めの時間を再現して重ねると、どうも事態は変わってくる。紆余曲折を経た自らの蒙昧な歩みを、そのままハガネに焼いて叩き出すような、響きを持ち始め、さらりと思いもしなかったビジョン(未来)を呼び込む。
当初独立稼働させる予定の音響を、システム全体から見直して、デバイス操作簡易化の為、映像チャプター毎に埋め込むことにした。これで、映像と音響は関係づけられてしまったようだったが、自立音響よりもデリケートな調整が必要となり、挙げ句かなり切り詰めることになり、音響自体の「成立と効果」と云う短いスパンのの時間軸で、これも意味の変容を探る表象とすることができた。
大問題は、経費の捻出。印刷・郵送・関係は勿論、サーカスのピエロであっても、それぞれが当たり前の働きとして経費を予算化されるのに、作り手にはほとんど意味のない額の謝礼とは一体どういうことか? 作り手の作家は全て、時間の有り余った金持ちの馬鹿と考えられているらしい。自腹で画廊に金を払って個展をやるお国だからというわけか。絶望的に文化が遅れている。