Time’s Eye / Sir Arthur Charles Clarke(1917~),Stephen Baxter(1957~):2003は、共著だが、Arthur Charles Clarke執筆時は齢80歳を超えている。描写に余計が省かれ映像的且つ清潔であるので、気楽に捲り始める。
元々、本屋の書棚のタイトルが目に残ったのは、自身の日々の関心を統括したようであり、中身よりもその象徴に好奇心を牽引された。時間に関する観念的な読み物は多いが、「時間を視る」というフィジカルな写真、撮影という行為が、端的に抽象された構想のひとつであると、勝手に先読みし、結果がどうであれ、読む意欲は、そういった解読にも裏打ちされることになり、裏切られたとしても楽しいものだ。
上限を2037年としているあたり、描写のリアリティーが映像可能でありそうなので、いずれ映画化されるかもしれない。そうしたリアリティーが小説家の構想の魅力のひとつでもある。
任意の時間空間が突然ミックスされ、ミールと名付け、計測上は13世紀の「ツギハギの地球」上で、夫々の時代の漂流者が、戸惑い大いに慌てながら出会って、彼らの時代が抽出されるあたりが、作品の醍醐味であり、単なる対立対極を成す遭遇ではなく、各単位の行動や決断に、出自時代における生存の正当性があるのが面白い。
兎角メタフィジカルなテーマが問われる作家ではあるが、この際、描写のリアリティーを味わいたいと、地下鉄で読み耽る。
9/8土曜日午後読了。チンギス・ハン、アレクサンドロスの世紀を超えた闘いや、時代の描写は、娯楽活劇として受け止められるが、ファーストボーンの存在理由、唐突な転送のエピローグに、こちらは納得できず。キャラの変異に些か無理がある。プロローグの意味も曖昧なまま終わるのはいかがなものか。構造はスペクタルであるが、やはり著者の母国であるイギリスがノサバリすぎる。然し、翻訳の中村融(1960~)は、とてもフラットな翻訳で、言語感が心地よい。ハードカバーを買うより小さなもので充分。SFは、人間の問題であるから、やはりタルコフスキーの惑星ソラリスを超えることがなかなかむつかしい。
スペクタルを続ける気持ちは萎えたので、反日本語論(1977)/蓮実重彦(1936~)をはじめると、序章「パスカルにさからって」の、「マロニエの木の下で」の記述が、中空に浮いた眼より、深く残る。
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マロニエの木下で、
寝込んでしまうと、
一疋の蚊にさされれた。
マロニエの木の下では、
もう眠るのはやめよう。
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