この国の新聞記事や雑誌の記述には、執筆責任(文責)が示されていないので、文体に人間の発声音が削除されていて、私は気持ちが悪い。言葉は個体から発生するものでありながら、機能する集団の都合によって「自由」をふるい落とされる性格があり、これがこの匿名性をその矛盾構造が支えるのだろう。「我々は〜云々だ」と記述可能である時、既にこのカラクリに取り込まれている。2002年の私的な転換の時節、個体存在を意味するものは、固有名でしかないと行き当たり、つまりそれ以外の個体説明は、個体以外の外部に依存するしかないじゃないかと、現代社会の人間存在=固有性の脆弱に気づいたが、最近の言論を様々に眺めると、この個と集団を巡る錯覚、あるいは誤解、勘違いによる、錯乱とも感じる局面が、目を覆いたくなる程、稚拙に氾濫している。30年ほど実名で作品発表を行ってきた者として、ブログは勿論、匿名の表象には、最近の中国の盗作問題と同じで、享受の対象として全く興味が持てない。其処には魂が無いからだ。
芸術は、個が時間と経験を注ぎ取り組み育んだ表象であり、集団の為のそれはデザインであり、目的と動機が違う。デザイナーは、集団の機能効果に関して徹底し、芸術家は私的な決断を人生をかけて研磨する。そしてそれは芸術家の固有名以外では説明できないものとなる。芸術とデザインの顕われを享受する側は、然し頓着なく無為に差異を感じる事なく眺めるから、立場に依って解釈を自在に持つ。それは結構だが、問題は、こうした生成各所へ、独我的で安易な集団理念介入による、個を破壊・消去するような振る舞いが、無意識に平然と匿名性で行われるということだ。個と集団を都合良く入れ替え、責任主体を外へ遊ばせる傾向が、この国は強すぎる。民族紛争や戦争、あるいは教育、虐めといったものにも、同じ構造が潜んでいる。現代社会に生きる人間すべてが固有なる個体(責任主体)になり、都度腹を割って自分の言葉を紡ぐことは、社会のシステム上無理だろうが、せめて功利的な集団の外の荒野で、人間存在の自覚を成立させる個体が在ることを忘れるべきではない。
安倍首相がよく口にする戦後レジームからの脱却も、つまり個(政治家)と集団(政党)の問題ということに尽きる。そしておそらく局面を跳躍打開するのは、イデオロギーや集団ではなくたったひとりの個体であることは歴史が示している。
テーマや理念を信じるより以前に、個体を、その危うさを含めて信頼しなければ、人間の可能性は閉じる。
台風の襲う前の埠頭にて、キレた朝に、気分ではなくステートメントとして。