現実の世界の記録(トレース)・写し取りを、カメラや録画・録音機器で行いはじめてまだ100年といったところだろうか。
陽炎のような影や、波形の未熟な再生音等を得て、当初は、現実世界へのスパイシーな非現実的要素として添加利用したり、イメージの増長に活かされもしただろうが、写し取りの精度がデバイス開発によって人間の視聴覚を超えるものとなりつつある現在、得られる映像データや音響データは、豊穣というより、世界そのものに肉迫しつつあり、人間が普段いかに視聴覚器官をないがしろにしているかが、それによってむしろ鮮明になる。
原爆の音というものの記録があったとしても、当時のサンプリングデバイスの能力での記録にすぎないので、実際の音というものは我々は経験できない。メタフィジカルでエモーショナル(情動的)な情景として捉えるしかないわけだが、その音を波形推定構築することができれば今後経験可能かもしれないが、音波に鼓膜は耐えられるのかしら?
TVモニターの描写精度がいくら上がったところで、実際のセザンヌの絵を前にして肉眼で眺める視野には敵わないが、これも、いずれなにかしらの方法で人類は迫る欲望を棄てていない。
最近企画コーディネイトする縁があり、以前より関心事のひとつだった、Christoph Charles氏のサイトダウンロードできるオリジナル楽曲を聴く時間の中で、彼の楽曲を支え、サンプリングされている音の断片毎のクリアな精度に、再度驚きを新たにしていた。
折しも、gentaが作品自体よりもプリントアウトの精度如何を印象として残した長野博文展の、所謂作品という完成度がプリンターに依存するしかないことも、人間の感受よりも、そもそも道具に問題があり、つまりそれらが、どのように集められ、どのように出力されるかの、経路と果てに関わる装置の精度によるという、いわば時代的な「質」が、高性能で複雑な記録機器によって保証されるしかないのは、人間的な感受の懐が置き去りにされたようでいささか残念でもあるが、これは、その高性能によってもたらされる別レヴェルの「事実」への見直しが促されることを意味し、扇動的で情動を煽る中身の無い恣意的なまやかしに比べると、余程可能性がある。
音声データの圧縮クオリティーが上がれば、YouTubeのような音に関するサンプリング投稿が可能になり、そのクオリティーによっては、現在のベルリン市街地の音といったかなり具体的な情報を得ることができる。リアルタイムでのサンプリングも不可能とは云えない。YouTubeは、60年代TVのようでまだまだだけれども。
と、本日も地下鉄でサンプリング。
NHK 特殊情報入力デバイス
低歪樹脂振動板
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世界最薄マイクロスピーカー
圧縮技術の未来