「続明暗」/水村美苗を少し捲り、怖じ気づいて「本格小説」を移動の際ポケットに入れた。所謂dedicationのレヴェルの深さ、潔さに怖じ気づいたのは2度目。以前も梅雨の時期だったような気がする。
端正というより恐らく長大な語りを不都合無く読みきる為の手法だろう、非常に丁寧平易な和訳を行っている翻訳者の正しい姿勢を感じるような真っすぐな文体に、随分以前に捲った横書き「私小説」の時に抱いていた、作家のテクニック、コンセプトといった戦略を感じずに、所謂「読み物」「語り」としての王道を受け取るような気分を引き起こされ、これは季節と相まって悪くない。小津安二郎の映像(秋刀魚の味:岩下志麻)を耳の後ろに小さく置く。
水村美苗:東京都出身。父親の仕事の関係で12歳のときに家族と共に渡米。ボストン美術学校、イェール大学を経て同大学大学院仏文科博士課程を修了。一時帰国後、再渡米し、プリンストン、ミシガン、スタンフォード大学で日本文学を教える。未完に終わった漱石の『明暗』の続編として1990年に発表した『続 明暗』が評判を呼び、芸術選奨新人賞を受賞した。1990年『続 明暗』で芸術選奨新人賞、1995年『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2003年『本格小説』で読売文学賞。夫は岩井克人(1947~)(貨幣論/1993)。
ーJLPPより引用
姑息な制作態度を切り捨てようと、身辺を整理し、妄想も燃物袋に入れ、ゴミ収集の朝に出すことにしたのは、現在の選択に端的な凡庸さを与えることで、見える事に降り掛かる誤読、誤解、余計な疲弊を払拭できると踏んだからだが、さて、そうしてクリアになるこちらの初期設定には、微細だが曖昧な部分が多く、意固地になると細部が連結壊疽し孤立する危険もある。と省みて、初期と言うことを憚らなかった無頓着のおかげで応変に繕った時節の記憶が蘇り、こうした反復自体が、呪詛であるなと気楽に考えなければ、無力感を生きるしか選択肢は無いのだと、稚拙なパズルを仕上げた気持ちになった。こうした流れは必ず万年筆がもたらす。
大手町手前で途端に睡魔に襲われ、はっと浅い眠りから醒めると同時に立ち上がり、駅のプラットホームへ飛び出ようとしたら、茅場町で、「かやばちょうか」と独り言が静かな車内で響くように喉から溢れ、こちらの席に滑り込む用意の曲げた腰の若い女性の瞳を15センチ程の近さで、濡れた金属を眺めるような心地で見つめつつ再び座り込み、「つぎでおります」とまだ見てもいなかった夢の中のような朦朧とした弛緩のリアクションを思わず返していた。
発売されたばかり(5月末)のキヤノン EOS-1D Mark III の人気(機動力)に多少気持ちを動かされたが、フルサイズではなく、APS-H(28.1×18.7mm)であるので、現状では5Dか。PIXUS Pro9500でA3出力。こうしたコンシューマー環境が現時点では初期設定であると知る。