いちど途中で放り出していたハンニバル・ライジング(上・下)を地下鉄で読了。けだし小説家の構想を支える筈の思春期からのレクターの創出には、なにか、ジャパンアニメなどに多く無責任に見られる演繹的な飛躍(超人設定)を説明する、あるいはその過程を埋める普遍化(リアリティー)への描写が、戦争体験(人を喰らう)+資質による復讐劇の正当化にすぎない上、そうした人間性の乖離を超人として今の社会下で提案するのは、最近の首切断事件などを安易に支えていると勘ぐりたくなうような悪意にもなりかねない。小説家には決定的なモノが欠落していると、不満感が膨れるのだった。
20世紀を生きた人間の呟きを、現在に投射する場合、どう転んでも恣意的に響き、そこから事実とフィクション(捏造)が二つくっきりと顕われるので、徹底した調査のバックグランドを準備しても、ちょっとした仕草で現実が反転し、短絡の穴に落ち込む。
昨今の特異・唐突な事件を抱え込んで、記録として残す場合、認識の中へ理解させるような手法は、稚拙と云わざるを得ない。闇が輝くのは、視界が徹底して無効であるからで、其処に立つ事実のみを描くだけで、言葉は尽き、大きな?を新たに分かり易く横たえるだけで、手を引くのが正当な姿勢ではないか。などと。
ようやくオブジェクティイブな個人的な構想に取りかかることができると、時間を用意したが、その過程を遠く眺め、明快な「思想」が浮き上がるかどうかと作業をチェックすると、いささか曖昧な部分が逆説的にはっきりとある。仕方ないのでこれまでを振り返り、線的なものの上に立ってみるかと仕切り直すこと自体、これまた言い訳のような意味合いとなる。
「これまで」を突き詰めることしかできないようにな手法が、さしあたって正当であると、立ち位置を線から点に変えてみると、成る程若干「思想」が明晰になる。


ハルボウに、「魔法の瞳をもつ少女」、「蜃気楼の国へ飛ぶ 」ペギー・スー/セルジュ・ブリュソロ(1951~)、コンサイス英和和英辞典、親指探し/山田 悠介、オープン・シーズンコレクターズ・エディション/ジル・カルトン。
梅雨に入ってからは辛くなりそうな気がして、ようやく、真鶴/川上弘美(1958~)を捲り始める。
早朝にstay/Marc Forster(1969~)を観る。これで、5度か6度目。2億弱で脚本を売ったD.ベニオフ(1970~)も、同世代であり、編集・視覚効果・撮影もこうした世代のフットワークでかなり緻密に磨き上げてあり、何度観てもそれなりに発見があり、構築の選択と手法が明晰。
Donnie Darko(2001)/Richard Kelly(1975~)とテーマは被るが、臨死の瞬間に注がれる全人間的な描写は、やはり監督と脚本を同時にこなしたRichard Kellyを超える。
デビッド・ベニオフには、小説をお願いしたいが、ウルヴァリンを主人公にしたスピンオフ映画の脚本はいかがなものか?2008春公開とのこと。
300(6/9公開)は、ドーンオブザデッドからの、Zack Snyder(1966~)の進化が見物。