water deskという意味を考え直そうと風呂で瞑想し、ベットに入ってからも長い時間天井を見上げたままイメージと言葉のジグソーパズルを繰り返していた。
深夜、自分の喉から、
「こうしてあなたの中に蘇るのよ・・・・・・・」
と言葉が溢れて暗闇の中、瞼がナイフで切り裂かれたように開いた。長大な妙に整合性のある文脈の夢を見ていた。
地震が起きて、大学のキャンパスのような場所に居たワタシは、逃げることができた。建物は大きく傾き崩れ、世界は崩壊の姿となった。が、皆がそれに簡単に慣れて、平常の生活を再び続けていた。全体を姑息な空気が立ち籠めるようになった。再び地震が起き、その時は巫女のように覚醒した若い女性が、我々を導いたが、彼女は脈絡ない映像先行の断片によって紆余曲折を経て率先して死を選ぶことになった。棺を囲んだ我々には左か右かの選択枝すらなかった。暫くすると、兎に角生き残らねばいけない執念だけが突出した残された者たちに異変が起きた。腕や、肩、腹や後頭部から、埋葬した筈の若い巫女の顔が、傷口から這い出るように顕われはじめた。ああ、これは以前見た絵画にあったものと同じだと思いながら、自分の喉が膨れ、ワタシのものでない声がカラダの中から出るのだった。
夢の意味等どうでもよいが、瞼を開け、まだ朝ではないなと寝返りをうっても、謂い様の無いリアルな体感は消えなかった。
夢の破片を朝食の湯気の中に蒸発させてから、追加材料の発注を行う。
床からテーブルへとスクリーンの高さを上げることで、眺めの角度が浅くなり、全体の把握が出来にくくなることは、不透過であっても同じであるが、それを踏まえて尚、机の形態に固執する意味は、床というものが思想の支持体としての意味性が希薄であるという直感、あるいは体感的なことだろう。このための特別な「床」が準備されるとなれば話は別であるのだが。映像を捉えるスクリーン自体を「思想」化させるには、今後の変容(特に10月の企画など)も加えると、どうしても「机」での形態を一度固定させねばいけない。もともと透過の意味は、直観を加えて、隠蔽(秘匿)型への批判、閉鎖空間への配慮と同時に、現代空間へのインターフェイスアプローチであったが、ここでその優先順位を逆転しても構わない構築コンセプトを新たに組み立てていくと、水平面である机と垂直透過壁面との併置という可能性が生まれる。項垂れて下方を眺める人間の眼差しと、正面に向かった眼差しとを使い分けることで、これまでの人間の眺めの姿勢というものも明らかになりそうだ。「映像」を、輸血されるように受け身となって享受するのではなく、能動的に観察する対象と捉える為の配置は、だから、様々な形態で試す意味はある。足下の映像を眺めて、ナスカの地上絵を眺め下ろすような浮遊感がどこかにあった。
機器の送付準備をし、今夜は家族とゆっくり夕食を摂り、人間らしくTVでも眺めて、何もせずに早々に寝ることにする。