Fujii君が、
「言葉がひとつあればそれで変わりますよね」
と投げてから、それを受け止めて頭をさまざまに迷わせるが、なかなか浮かばない。手法や現れの類似性ではないと直観があるからで、むしろ例えば、「エフェクトの先」とでもいうような体感の果てのようなものであるような気もする。
彼の新しい作品マケットを見て、それが楕円であり、鏡面であることから、ロサティーを想起したが、鏡面まで洗練していない社会下に設置されているし、そもそも成立の磁場が違う。Edwin Van Der HeideThomas Demand、と巡らせて、Christophe Charles氏へ繋げていた。共に20世紀末を、自らの手法で、切断している同世代の作家である。
隙間を関係の観念で埋めるとか、断片の再構成ということではなく、つまり、Fujii君曰く、
「人間は宇宙に行きますよ」
という突き抜けたイメージに沿った「言葉」でなければつまらない。
Takenouchiのヒューマンインターフェイス研究にも通じるかもしれない。明快、明晰であるその果てを指向するのは、デバイスではなく、デバイスが人間の手足や五感に代用されるのでもない。あるがままの透き通った「ある種の地平」へ旅立ちたくなるような探究心を促す、倫理的な体感を示す「言葉」が欲しい。而も、決然と20世紀と決別した切れ味のある切断力のあるものである必要がある。
こちらとしては、「Cut & Leaving」(切断と放置)が、状態としては近いのだが。これじゃあキャッチアンドリリースみたいだしな。


先週の日曜日、今井君に、長野城山での、まだ蕾だったが、よく晴れた休日、花見に呼んでもらい、懐かしい面々と会って酒も旨かった時、DATで経験済みの小野君より、空気を録音できますよとすすめられた、
「今までの録音は、何だったのだろうか…」そんなことまで思わせてしまう、‥」と製品紹介されているKORG MR-1を調べるとなるほど1ビットレコーディング。
使うしかない。というより、この録音データからはじまるモノ(コト)がありそうな気配。XLH1と同期させて、引きずられてみる。マイク次第ではあるだろうが。まずは埠頭。