過去、教会や寺院など人々の集う薄暗い広がりの中で、ステンドグラスや小さな窓から差し込む光が、ほの暗い空間の金文字や金箔の仏像の輪郭を輝かせ、ライトインフォメーションとして瞼を魅惑的に刺激し、同時にその情報に加える想像力を掻き立たせた。コンクリートと電灯の、隅々迄明るい空間が顕われると、太陽の無い夜であっても、全てがはっきりと見えるものだから、眺めの世界はモノのディテールがあからさまになり、私たちはマテリアルインフォメーションに心を奪われるようになる。
オブジェクトな素材の世紀から、個人的には「真昼の情報」とも云うべき、明るさに満ちた新しいライトインフォメーションの享受の世紀となりつつある実感があり、その伝達形態を模索することで、インテリジェンスのクオリティーを見直し、捉え直したいと考えるようになった。「選択」と「併置」、つまりリストアップがgoogleの「検索」に牽引されながら、やがては、エンジンにプラグインを与えることで、固有な眺めとしての「選択」と「併置」ができる筈だ。
「マルチメディア」という言葉がすでに、古くさい意味合いを帯びるのは、メディアはデジタルの海に平等化されてしまったからで、音もテキストも映像もプログラムも、様々な手法でインテリジェンスオペラとして五目ご飯のように喰えるのだから、要は統合享受レシピの構築の問題となるわけだ。
眼を閉じて椅子に座り、聴覚を尖らせて、高価な再生デバイスから音響を得る、その果てのヒトの姿も興味深いが、情報の錯綜のレシピによる、認識の地図、感受の構造が変容に伴う、それぞれの表象の国境越えの姿を、あれこれぼんやりと幻視するほうが、ワタシには刺激的ということ。
すべきことは、癖の無い、シンプルでそれなりに美しいオペラインターフェイスと、そこへ流れ込むソースクオリティーということになる。