長女の成績が学年トップとなり、次女の書き初めが学校代表に選出され上野の美術館で飾られることになる。といった華々しい娘らの新年の報告に喜びながらも、ホントにアタシの子供かしらと、娘たちの年齢の頃の自分の出来事を幾つか無理矢理憶い出すと、そのほとんどが恥じに塗れた脳天気なものであったから、首を傾げるのだった。週末には両親を東京観光ツアーに招待したので、悦ばしい話題が増えたのだが、こちらは逆さまな胸騒ぎを増長させて、娘たちがどっぷり凹んだ時の対応を浮かべていた。
「1900年頃のベルリンの幼年時代」/ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940:ヒトラーから逃れながら自殺)を捲る。(ベンヤミン・コレクション3「記憶への旅」:ちくま学芸文庫(全3巻);1997(1980初版):浅井健二郎編訳・久保哲司訳 
以前より体質が近すぎるような気がして手元から遠ざけていたようだった。ちくま学芸文庫20世紀クラシックスシリーズはなかなかよい。翻訳が率直でよい。やはり思ったとおり瑞々しい映像が立ち顕われた。
ーいまだ批評ではないが、しかしその萌芽を孕んでいるなんらかのイメージーひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の断片、ある作品の一行、映画のシーン、成就されることがなかった希望など。現実と幻想のあいだに、経験と夢のはざまに、現在と過去の閾に漂っている想いの断片が思考の運動を開始させる。私的な記憶が歴史の記憶とせめぎあいつつ出会う場所へ、私たちをいざなうベンヤミンの新編・新訳のアンソロジー、第三集完結編。ー
装丁カバー裏のなかなかよろしい説明文より抜粋

具体的であることが具体的に容認されがたい世界に暮らしていながら、その不自然さに苛立つ自由を多くに人が曖昧に放棄して何の痛みも感じようとしないときに、この痛みを回避しようとする倫理性をバルトが持ち続けているというだけのことだ。断片の誘惑に媚態で応じること、それは発話行為を倫理的たらしめる唯一のみちだ。倫理とは、もっぱら具体的なものだからである。ー
ロラン・バルトまたは複数化する断片/蓮實重彦(1979)
「映像の修辞学」(1980初版)/ロラン・バルト(1915~1980):蓮實重彦+杉本紀子訳より抜粋
深夜のNHK総合「世界ふれあい街歩き」のカメラがとてもよい。多分ステディカムによる撮影。(但し編集に難あり)


蓮實(1936~)の講演録である「蓮實重彦 映画への不実な誘い 国籍・演出・歴史」(2004)を捲りながら、NHK総合TVを観るでもなく流していると、週末の21日(日)の夜のNHKスペシャルでgoogleの番組をやると知り、HDへ録画予約する。
「脂肪の塊」/モーパッサンの翻案が同時代的に日本・ソビエト・中国・アメリカにておいて展開する、所謂映画の翻案の広がりから、模倣が差異を生産する映画の魅力自体への再認識で20世紀を捉え直すべく、映画への無自覚を戒めよと促す口調自体に、70代という老境に至って(レクチャー当時はまだ60代か)未だ衰えを知らぬ蓮實の底力を感じる。映画の唯物的な擁護から、可能性の軸をズラして再度「観る」ことを問う態度を新たにして、映画黎明の世紀を捉え直したいという気持ちは、おそらく様々な次元や局面で、各々の必要から顕われはじめている。
ー複製ゆえの迫力
優れた芸術作品、例えばトルストイと、トルストイを映画化した溝口健二ー「復活」をそのまま日本に移して、「愛怨峡」(1937)という映画を撮っていますーのどちらが偉大かといえば、一世紀後には溝口健二のほうが偉大だといわれる時代が必ず来ると私は思っています。ー
上記より抜粋