二日続けて同じ往復車両の中、欧州から帰国した妹を出迎えた東京駅で購入した「理由(1998)」 / 宮部みゆき(1960~) を捲り、二日目の行きで突然目が眩み吐き気が込み上げ途中下車する。車両に酔った。
夜から深夜にかけて、Capture Oneにて現像の続きを行う。この現像という過程において、全く気づかなかった所へ導かれる感覚が生まれる。これは俗に云う「土壷にはまる」ことかもしれないが、そんな落ち込みであっても展けであっても、こちらにとっては違いはないので反復に任せる。併し撮影と現像が身体的に極右極左の斥力に守られた位置取りをしているので、そこを移動するのはなかなか簡単ではない。
現像の後、動画取り込みをしながらうたた寝をして、気づくとラップトップにこれ以上読め込めないというアラートが表示されていた。
No Country for Old Men(2007) / Joel Coen(1954~),Ethan Coen(1957~)をようやく観る。制作費はおよそ3億円。興行収入は1億6000万ドルを超えたとのこと。原作は、No Country for Old Men (2005) / Cormac McCarthy(1933~)。スクリプトがやや詩的。理解を超えるモノを当惑して、その存在を世界なのだと認めるしかないという視線が倫理的。エンディングが印象的。だが二度観ると、ニュアンスとしていささかコーエンのフォーマリズムが匂い、ミラーズクロッシングより物語の豊かさに欠ける気がする。スクリプトの問題かもしれない。
Cloverfieldは、コンセプチュアルでラブリーに仕立てられていることが気に障る。編集手法だけという感じ。高校のサークルがつくった自主映画のようで物足りない。
週刊 上杉隆 / 東京脱力新聞2.0 →最近面白いので読む。
Maria João Pires & Ricardo Castro – Piano Duet
後期ショパン作品集 / Maria João Pires(1944~) / NHK
-「理由」宮部みゆき-はやはり予想した通り、東野圭吾と同じ。失望感というより、やはりこれらの作家のスクリプトを読む時間は無駄だという認識が残った。水戸黄門と変わらない。端的に云うとそれは、言葉自体の魅力の欠如。描写は説明であり、私は世界の説明を読みたい訳ではない。殺人を犯すのはモンスターであるという寓話へのすり替えには呆れた。状況を複雑克明に描いているような手法をとりながら、その描写自体が凡庸な雛形の累積であるようにしか受け止められないのは、言葉によってしか表彰され得ない固有な鮮明さを追求していないからに他ならない。作家はどこにでもあり得るような現代的状況の構造化を目論んでいるのだろうが、その普遍性を狙う目つきに嘘くさい雛形の顔を曝け出すわけだ。例えば水村美苗(続明暗)と対極にあるこれらのエンターテイメントが、ビジネスモデルなんですよともてはやされる時代ではあるようだが、まあ世の中はそうなっておるんでしょう。どうしようもない長編を発作的に手にするのを戒めて、言葉を吟味できる翻訳短編へとシフトすることにする。