地下鉄で「辻」ー「受胎」ー「草原」ー「暖かい髭」(/古井由吉)と俯いてゆっくり読み耽った。
女が男と交わって種を孕む、互いに前後や上下がわからなくなる危うい時期の観念の喪失を肉だけが繋ぎ止めるような箇所を辿って、「女の腹」という言葉が残った。男ではそうは言わない。言うと何か病のような後ろめたさしか広がらない。あるいは老年、壮年でもいいが、になり明晰であるがゆえに、過去を整理せずに青年のような乱暴を健全に放つ仕草などを引き寄せ、手元に浮かべた。70歳の年齢で恐ろしい成熟を見せてくれる古井の小説の、4、5年前には描写の反復の、物事を突き抜くように動く瞳の運動に果てがないので、耐えきれずこちらには重かったものが、今となって、その繰り返しに頷くようになっている。運動に沿うことも離れることも楽になった。現実とはややずれた虚構のものであれ、作家の意志が貫く、どうにも捉えきれないようなあやうさが、最近の私には、むしろ骨を支えて動かす歯車の潤滑油のような効果があるようだ。
どうも正当性を突き詰めると、妙に頑な独り踊りのようなものになる。拘りの塊を溶かせば観るに耐える踊りにもなる可能性は残っている。
匂いにしろ、音にしろ、仕草にしろ、反射にしろ、構想は一人の観念からはじまるのだが、まだ未熟だからと構想を一人で相対へ抱え戻す堪えを踏み越えてゆけば、ゆらゆらとヒトの間を自在に行き渡るようなナニモノかになるわけだ。
人と遭って話し込んでも、話を受けても話を放っても、こちらはあちらの何ひとつ気づかない。あちらもこちらの肩越しに視線を喪失する。いっそ黙り込み、あるいはまた。ということだ。
夢の中、再び知らない小さな子を自分の子と信じていた。それにしても揺りかごの中、親指の一撫でで額が終わる程小さかった。続けて深くに(あるいはどこか隅に)隠し持つ怒りのようなものを溶かして、一気に油断していくことが、心地よかった。深い傷は、痛みは癒えるけれども、消えないから、傷跡を皮膚の皺のように折畳み、日々眺める光景の一部としないと振れる因子となるなとその時は大きく悟っていた。
早朝には眠りに名残もなく、くっきり起き上がったが、雨具無しで走るには辛い天候だったので、窓を開け、若い友人らの写真画像をディスクトップで眺めつつ楽曲を制作する。人気の無いものばかり選んだ。撮影の必要が光景となって浮かんだ。
memo:
Cornelius SENSUOUS
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真上にはまだ厚い雲はあったが、南から真横に光が差し込んで、運河の先、北東の空にはぽかりとあいた細いスリットが横に伸び、鮮やかな青色が見えた。ふたつの低気圧が大気の塵を吹き飛ばして通り過ぎた。澄み切った早朝走ると、これまで同じ所で足が息があがり身体が止まる角を難なく越えていた。あっけもないことだ。いまだ相変わらず膝には痛みがあるが、苦痛というほどではない。
運河にはトビウオが跳ねていた。
父親に死なれて、以降継母に20年育てられ、その継母が50手前で亡くなったばかりの女の、裸足で歩くような分裂と出会う若い男の老成が、老人の眼差しに重なり、儚い「女の腹」を持て余す、関係の香りのようなものを、読後抱えたままでいたので、歩行者専用のあさしお小橋の上でしばらく手すりに肘を乗せて、運河を眺め、自分の娘らの人生などを漠然と転がしていた。