ー日常用語としての悪意(あくい)とは、相手のよくない結果を望む心を意味する。対義語の善意は、相手によい結果を導こうとして行為を行なう気持ちを指す。ーWiki
新幹線に乗車する前に、The Sinner / Tess Gerritsen(1953~) / 邦題:聖なる罪人 / 安原和見(1960~)訳 を購入し、割と混雑した車内で読む。翻訳が平明的確でよろしい。安心してゆっくりと辿ることができた。
大宮を過ぎて、目が疲れたので頁を閉じ窓の外の夕暮れを見やりつつ、「悪意」そんなものどこにあると、考えを巡らせ、おそらく悪意とされるそのほとんどが誤解なのだろうと、蒙昧に外を眺めた。食卓で長女に人の悪口を言うなと言葉を荒げたことを憶いだしていた。
「悪意」の表出に口元を曲げた笑みを浮かべる、悪のイメージは凡庸明快だが、リアルでは存在しない。微笑みながら人を切り捨てる時代劇のテンプレートは、いずれ倫理問題の対象となる。昨今沸き上がる社会問題で、正義と責任を当事者に詰め寄る記者らの言葉にこそ悪意が潜んでいるようにも感じることがある。
テロも、原理的には報復なのだから、これは悪意かというと、報復という倫理を考えれば、そこには潔癖な反射があるだけで、悪意は人間の権利と誇りにかき消される。現在を生きる人間の生命という基準をあえて
与える倫理を再構築しなければ、このもみ消しがいつまでも有効というわけだ。
仕事場に戻ると、車で人を3km引きずった上逃走したひき逃げのニュースが流れていた。この3kmの距離、人間を車の下に引きずって車を運転する人間の克明な言葉というものは、おそらく作家という種類の者にしか表象できないかもしれないが、私たちが知るべきなのは、そこには悪意ではない何か普遍的なものがあって、我々はおそらくそれを共有しているという恐怖なのだろう。
これは駄目、これは良いという浅薄なイデオロギーが失効し、全ての立場の根拠と動機が明らかになり、加えて、人間的な足掻きが固有なる誇りを伴って顕われる現代は、あらゆることの文脈的な正当性が描写された上で、我々はゼロに立って人間的な知覚を自覚的に身体で恢復しなければならないようだ。