モーションピクチャーを断片化させて繋げる所謂編集は、断片自体の力があれば、つまり断片化が巧く行われておれば、併置接続による編集は簡単と考えていたが、完成度の高い断片であっても接続の仕方によってはむしろその魅力が損なわれるコトがある。
事故や災害などのドキュメンタリーは、断片そのものの意味があるのに、近頃のTVニュースなどは、テロップやクレジットなどのスーパーインポーズの他に、装飾的なインターフェイスをレイヤーさせて、なんとも猥雑にソースの差別化を行ったりしている。字幕に慣れているこの国の人間は、こうした錯綜をなんとも思わないらしい。字幕が絵に与える視線の遮りが、こちらにとっては、汚れたグラスで酒を飲むような気分と同じで苦しくてたまらないので、TV番組の、簡単な情報を複雑に仕立てる余計なインターフェイスが、20世紀初頭の過剰装飾美術を彷彿させ、こうした時代のスイッチをこそ切断させたい気分になる。
フェードイン、フェードアウトというやんわり消えていき、やんわり浮かび上がる接続編集も煩く感じる。実に丁寧に制作されている、例えば「世界遺産」シリーズは、高画質高性能カメラであることはよいけれど、光景に立ち入っていく視線となるカメラの動きを支えるワイヤーやアーム、レールなどの多用が、流麗に動かされると動かされるほどに、映し出さなければならない筈の、実際の光景の現実感を、逆に曖昧に恣意に創出した幻影へとマイナスに導く場合もある。
わたしは、記憶には額縁に収まったような光景は存在しないと考える者であるので、美的に構成されている、あるいは配置されている捏造風景には興味がない。
人間は、どのような身体の動きの最中、あるいは動きの果てで、また身動きせずに、モノを憶わずに眺めているかという仕掛けから辿り直すと、記憶と重なるレンズの位置が浮かんでくる。クライマーとロードレーサーの視線が実に興味深い。
「湖」の画像を撮影したいとここまでは簡単に考えて、さて、この眺めはどういった者のどういう仕草から生まれた眺めなのかを構想する必要が、わたしにはある。