ガレージの雪よけ設置終了。これで随分違う。
蔵での音響PAの準備をしながら借りてきたシンセサイザーなどの音出しなどをして結局音響的な振動知覚につくづく軀が反応するのだと今更に自覚する。電子ピアノなどは電気信号をアンプ出力せざるを得ないがどうも納得できない。振動の物理的な基本構造があってそこへのアプローチによって振動が発生しそれを拡張する流れならば振動の系譜的享受に不思議不満はないけれども、例えば電子ピアノシンセサイザーの夥しい音源は現実的な空間で発生する振動のリアリティーがない。
マンションの一室あるいは月島の狭いオフィスで拡張を前提で選んだOvationは勿論わるくは無いが、楽器としてそもそも音響学的に自立している体感に不足がある。山麓のフィジカルな音響環境で振動を体感するためにやはり選択を迷ったことのあるMartinということになる。マホガニーのD-18かローズウッドのD-28かという迷いは年齢的な控えめなアプローチを想像力に加えることでD-28。ピアノも構造的には目の間に弦の張られた振動発生がなければ関わりの現実感が生まれない。おそらくそうした自明を幼少時に直覚し振動経験を自分のものにする人間がその後の長い人生音楽を行う。
PAなどで拡張せずに音響場をストレートに構築すればよいという手法も勿論あるが、非日常的な音場を音響的に背伸びしたいと思うのはいかにも現代的な選択であって、経験値に刻む必要はある。特にヨーロッパの音(CD)に反響エフェクトが多用されるのは洞窟が遺伝子に潜んでいるのかなどと。
こちらは音楽を積極的に行う種類の人間ではないが音響学的空間を構想の一部に加えてきた蓄積が、時に必要以上に楽器を求め、時に分解するような仕草で距離をもつ。いずれにしても音というものは視覚と同様人間的な歓びのひとつであるのは確かだ。