背表紙を眺めないと、すっかりその存在を忘却するものだ。仕事場の移動によりタイトな環境になったことで、積んだままだった箱から取り出した1500冊程を実家のリビングに設置した書棚に並べ、絞り込んだ残り300程を詰め直し仕事場に搬送する時間を割かねばならなくなった。動物的で即時的な興味や好奇心に任せ次々と新しい書物を読むということよりも、最近は過去読んだものを再読、あるいは再再読する傾向が強い。書物というものも、他と同様に受け取る側の環境は勿論、調子や気分に応じて内容を変容させるから、再読してみると、一読して刷り込まれていた感触と随分印象が変わるものだ。それがまた面白い。難解さに疲れるように読んだ筈のものも、時間の経過を加えると、難解さとはつまり、こちらが張り巡らしていたシールドのようなものであったと気づく。
今回の搬送には娯楽享楽的な書物は加えず、意識的に自らに再読が必要と思われるものの選択が、いささか趣味的になったとはいえ、積み上げた搬送段ボールに加えられなかった書棚に残る幾つもの背表紙に、あれも加えるべきだったという思いも残った。
これまで1万冊を読んだのかどうかわからないけれども、幾度かあった整理の時に捨てるものは捨ててきた筈で、残された背表紙にはそれなりの理由があり、中には一度読むとその享受を終了させて捨てる人もいるだろうが、そういう記憶力、把握力の無いこちらは、書物と付き合う時間というものに、その書物からの完全享受を委ねることになる。自身の読む能力の限界がつまり、再読を促し、理解が書物に届いた気がした瞬間に、むしろもう一度新たに突き放されるようなものを、書棚に残しているようだ。それにしても、書物における「言葉」の情報量というものの豊かさは、今のところ私にとっては、まだまだ、DVDや映像などよりも情報享受効率が良いようだ。
沈黙から「言葉」がふつふつと時間をかけて滲み出るような静止画像(スタティックイコン)を、情報や認識の過剰享受の果てに夢想するワタシの性癖にも、併し辛うじてなにがしかの成熟があるとすると、多少は面白いものになりそうだと、最近は短絡的に考えるようになった。