先日から、主に移動の時間に読み始めた「陽気な夜回り」/古井由吉が、こちらの硬直や無能を助けてくれる。
ー上手の役者に人の就寝前の行動を仔細に真似させたら、さぞや面白い演技が見られることだろう。こういうものに人がエロよりも興味を覚える時代がいつか来るだろうか。その際しかし、心ある役者ならば、演技の過剰をもっとも戒めるにちがいない。可笑しいと眺められるよりも先まで、つぶさに真似てはならないのだ。おそらく陰惨になる。ー
「陽気な夜回り」冒頭で現れる、この「陰惨」という言葉が、先日から残り、本を捲る度に冒頭の同じ箇所を辿っていた。続いて就寝の儀式をめぐる部分、
ー眠るのにあまりに細心の工夫をめぐらすことは人間をいささか、その時の情景をあえて思い浮かべないとしても、グロテスクにはしないか。例えば昨今、話はすこし違うけれど、自身の健康の維持にあれこれと神妙な工夫を凝らす人間がふえているようだが、あれもどうかして、グロに見えるではないか。誰しも病みたくない、老いを少しでも遅らせたい。健康に留意するのは当然のことなんだが、今の世の人間の性癖として、どうしても過度へ傾く。それ自体が目的のごとく仕事のごとくなり、真剣に精力を振り向ける。そんな健康になって、死ぬ時はどうするんだ、とそんな高飛車な憎まれ口は叩かないが、おのれの健康を無際限に大事とする人間とはどんなものか、贅肉は落ちても身のまわりに、目に見えぬ肥満の感じをまつわりつかせているのではないか。生命を磨り減らして、健康を肥大させているような。
街のなかの真っ昼間を、眼中に人なく場所柄もなく、密室の雰囲気を身のまわりに運んで、面白くもおかしくもなさそうに、ひたすら真剣孤独、厠の中で今日の通じのぐあいを気づかうような顔をして、走っていたりする。ー
自らの振る舞いを忘れている時、ふと知る自身の、陰惨、グロであることの普遍を、私は引き寄せていた。過剰な集中と没頭は、確かに充実するだろうが、隣に、陰惨でグロな傾きが在るということだ。何か一言モノを申せば、そういった傾きに乗った一流のグロになってしまうところなど、世の風潮でもあり、所謂表象に顕われる方々は、そういう意味でほとんど陰惨である。戒めるには、せいぜい隣に置いて眺めている仕草を与えることしかないかもしれない。