柄谷「近代文学の終わり」は思いのほか読み易く、平行して週の頭には配達されていた「魅せられて」作家論集/蓮實重彦、「ゼラニウム」/堀江敏幸と捲り始め、「思想はいかに可能か」/柄谷行人にはまだ手を触れず、文字がこちらにとってまだ有効であることを確かめるように、撮影で歩き疲れ膨れた足首を放り投げた身体でこそ、吸収というより言葉の連なりがモノを眺めるようにくっきりと見える気がした。蓮實の「白髪の唄」/古井由吉に言及する「狂いと隔たり」の、言葉の表象から作家の人間的な骨随に潜めた確信に難なく迫る分析が、ひとつの文学の形態として、これまた明晰に残る。大正か昭和初期の作品を読んでいるような「ゼラウム」の錯覚は、こうした併読が齎すと簡単に考えた。
2週間程、言葉等放って、考えることをせずに歩きシャッターを切るという10年前の歩行を憶いだそうとしたからか、日が暮れると、何をしていたのか失せてしまい、記憶が無いような歩きだったことも、言葉に寄り添う気持ちの傾倒を支えた。
最初は楽しみながらしていたイヤフォンを途中から外したのは、iPodからのBGMがどのようなものであれ五月蝿くなり、見つめることの集中が、予定された(構想されたコンセプチュアルな状態)ものであれば音響は有効だが、見つめる眺め自体を捉えようとする能動性を動物的に働かせようとする際には、むしろ邪魔になることを知ったからだった。
無邪気な疲労だが、こちらの日々には、朝のランニングのような気軽さで反復を生活化させたい。
毎朝の新聞を捲る手つきで目を通している23channel blogの新着セレクト12/9にある、Mark Holthusen Photographyに眼が止まる。よいものを探すなあとセレクションを感心しつつ、このweb siteのシステムも気に入る。ushiyama,tsurutaのweb構築もこうのような展開が望ましい。