1912年1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載した漱石の彼岸過迄を捲りつつ移動を繰り返す。作中「須永の話」の高木に関する部分が、今年の大学入試センター試験の国語の本試験に出題されたらしい。朝日新聞は発行部数は近年読売新聞に抜かれ第二位で公称800万部だが、1912年当時を調べると、
東京朝日新聞
明治37年当時の発行部数が9万。一ヶ月の購読料金37銭一行広告料40銭。
明治40年発行部数が20万。
大阪朝日新聞
明治37年当時の発行部数が20万。一ヶ月の購読料金48銭一行広告料42銭。
明治40年発行部数が30万。
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東京は、江戸時代に100万人だった人口が明治20年代から増え続け、大正元年(1912年)に200万人を突破、大正8年(1919年)には約240万人と急増する。特に関東大震災以後は、郊外への進出が多い。第一次大戦の好景気があり、企業の新設や拡大、大正3年の大正博覧会や大正11年の平和博覧会など活気が溢れている。商業活動では百貨店の大衆化(木綿デーなどの各種特売を打ち出し)が大きく消費を促し、三越は大正3年、ルネサンス式5階建の新館を建築し、下足廃止・土足入場を断行する。市電やバスの発達で買物行動も楽になる。生活スタイルは洋式模様の商品が氾濫し、食生活ではパンや洋食が家庭に普及する。文化鍋、文化コンロ、文化住宅など頭に“文化”や“モダン”が付いた商品が増える。大正14年にはラジオ放送が開始。日本人の意識革命が進み“大正デモクラシー”と言われた時代である。
ー朝日折込広告史より抜粋
ラジオやテレビの無い頃、生活の刷新と仕事を求め人々が都市に集中する時、彼らが目にした漱石の彼岸過迄は、現在の朝ドラのような意味合いで、人々が共有する情報となり、他者と他者を結びつける役割を果たし、あるいは言語のパラダイムとなり、教養の差異を問わず道具としての日本語を底上げしたと言える。発行部数が少ない地方でも同じ効果があった筈だ。これは、現代の携帯や情報メディアと似た効果があり、つまり、誰もが判る娯楽を装いながら共同体の輪郭の拡張と言語構築に一役買ったわけだ。ダンテ然り、シェークスピア然りだが、そういう眺めで漱石を読むと、描写の凡庸だが詳細に渡る記述が、生々しい差異を睨んだ音声を伴って聴こえてくる。「この記述は眺めの倫理として一度は含んで、必要なければ吐き出してもよろしい。含むだけで効果はある」とも聴こえる。
学生の頃の80年代は巷は思想・哲学の輸入ブームだったが、今考えると、あれは自分も含めてそれだけ無知が蔓延していたからであり、無知からの離脱を皆が願ったからにすぎない。つまりあのブームは皆が部屋で書籍を捲っていたという暗いイメージが実像であって、手にした厄介な道具の使い方に途方に暮れる墓場の悪臭がたしかに、いたる所に吹き出していた。誰もがそういった情報を簡単に手にすることができる現代は、むしろ様々な光景下において、例えば、アスリートの身体の探求からの思想や、有機農園の持続構造理念や、環境計画思想などのほうが、エキセントリックな知として興奮を覚えるのは、単にそれらが明るく快活で機能的であるからだろう。
言語記述を、平明で判りやすく、飾りや興奮やデタラメを抑制して行うには、こうした時代のテクノロジーとしての機能を都度求めるようにしないと、衝動的で発作的な喘ぎとしてしか残らないかもしれない。例えば携帯で盛んに使われる絵文字というものも言語記述と考えると、エジプトやテオティワカンの意味が圧縮された時間成熟の道具としての象形とも考えられ、音声を喪失する象形の逆転がひとつの唐突な帰結としてみえてくる。
列車の中で、静止画像と音響を併置しながら、弦楽器の一音データのタイムラインを可能な限り延長させ、その切断の音響を与えたが不十分であると感じた。加えて静止画像と動画の例えば一秒に無限コマの静止画像が併置される時を考えると、そのひとつの静止画像はおそらくアウトフォーカスした靄のようなものだから、つまり、静止画像は凍りついた一瞬という抽象ではなく、ある程度のボリュームのある時間を蓄えていることになる。言わば我々が通常口にする写真という静止画像の原理は身体的な視覚感覚とは全く別物の顕われと考えたほうが理にかなう。前に戻り、添えられる音響は、時間軸の延長エフェクトではなく、ある程度のボリュームにそったものであろうと腑に落ちた。とここから引きずられて、静止画像に併置する言語記述も、同じようなボリュームが然るべく置かれることがあってもよいのではと考えたが、俳句や短歌、詩などは、むしろ短い言語記述が無限を呼び込むので、記述が静止画像の現れを望むようなエッセイしかないと強引に繋げた。