夏の終わりが来るのか来ないのかという残暑ストレスもすとんと萎え消えた週の頭からベッドの中で、「ベルリンの瞬間」/ 平出隆と、「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」/ ジャン・ボードリアールを交互に再読し始めて、寝起きの朝ぼらけの中で「想像力の奥行きかぁ」と呟いた。
片や顛末詳細記の当惑から燻る固有な自立契機のようなものであり、こちらは時節の現実感に注ぎ込む豊穣をすべて受け止めきれない。片やメタフィジックな黙示録、遺書めいた晦渋と明晰を螺旋の上昇下降の反復にて促すものであり、辿る度に印象も得心の軸も変わる。なんのことはない、すべてこちらの問題だと、曜日を変えても姿勢を崩すように灯りを消して寝入っていた。
彫刻家が指先の触覚の律動の果てにすべてを投入するように、画家が絵具の有り様に全身を委ねるように、音楽家が聴覚の果ての無音の暗闇に更に音を探るように、物書きが観念の海の中呼吸もできないような深みで長々と壊れたロジックや言語の微生物となるように、集中のひたむきなベクトルはすすむけれども、その知性の促しの性質は結晶のような外郭を持つ傾向があると根拠無く信じられてきた。だがこの外郭は実は肉体の皮膚でしかないと気づけば、「想像力の奥行き」のいわゆる深さの中で浸透し合い、重なり合い、融合する。