この年末で、コンピューターを思索のツールとして使い始めて丁度十年経過する。わけもわからずに、2000年の、新世紀の夜明けの新年に、既に訳知りの教え子たちにあれこれ尋ねて、今使用しているラップトップがエコカーとすれば、250ccバイクのようなものだった、iMacを、何度もリストアしながら冬の夜、40を超えたおっさんが、夢中になって顔を赤くしていた。
自分の道は自身で切り開くという、身体ひとつの意志で人生を渡っていくという時代ではなかったわけで、巷のプロダクトやインフラの整備とその利便に大いに流され、導かれるままに、むしろココロも預けるようなマゾっ気も育まれた。だが、まあ、仕事もこの端末に向かう種類となって、年寄りの冷や水でしかない独学は、まずプログラムやアルゴリズムだけでは駄目だと、関わりのはじめから諭し諭され、愚鈍に行った結果、やはり、回路制御のようなものだから、「では、何を」という帰結は、はじまりにあった。
この先の10年後に、何を思っているか、骨となっているかわからないが、身の周りを見渡すと、そろそろ整理なされよ。と、促される声が、やや強く聴こえる年末を向かえているが、十代の、否、二十代の、無謀な「熱中」の因子は、消えずに灯っていて、これを宥めるのが幾つになってもまたややこしい。