今行われていること。近い将来行われること。巷に溢れる情報のほとんどはこの2種類であり、ほぼこの2種類が辛うじて生活を支えビジネルモデルを牽引しているといってもいい。いかに現在を知らねばいけないか脅迫されているようなものであり、こんな脆弱な環境では倫理など生まれない。単純にボリュームを比較しても、未来を幻視するよりも、歴史を知る、過去を知ることから得るものが大きいのは確かだ。「今」対峙するあるいは降りかかる出来事は、幾つもの目撃、体験、知覚のフィルターを通過し、時間の経過とともに過ぎゆくけれども、そうした経緯を踏まえて、出来事は人間的に消化され、蓄えられ、あるいは排除されるものであるから、出会う瞬間ばかりを求めるという傾向は、出来事に対する一面的な態度にすぎない。あの時に不鮮明だったことが、ようやく鮮明になる。ということもある。兎角いわれる歴史認識の差異は、つまり全て事実に基づいているか、過去の印象を固持しているかの違いにすぎない。生きている瞬間は全知全能というわけにはいかないが、「あの時」に知性を注ぐ時間が残されているのが人間である。
写真撮影というものが与えた認識かもしれないが、過ぎ去ったことへ知覚の触手を伸ばすという態度を学んだ。現在のあらゆる「新しい」顕われにも目を奪われるけれども、「創出」する際にはそういうことだけでは済まない。

新型の製品や、新しい技術と膨大な予算を投じて製作された映画などの、ウェブ情報メディアを見ても、TVコマーシャルと同様、数ヶ月でその情報の機能的「旬」は失せたと判断するのだろうぷっつり削除される。以前よりこれは、死体遺棄のような、事実の証拠隠滅、無責任な不法投棄のような感覚を抱いていた。この国の短期間での経済成長が人々の骨に刻んだ「使い捨て」の感覚は、なかなか修復がむつかしい。
例えば長野オリンピックなどにしても、時代的にインフラの整備不足もあるけれども、現在検索できるのは、ウィキペディアか、IOCの貧しいデータ程度にすぎない。情報廃棄は、時間の経過とともに、多くのディテールを喪失する運命にあり、ぼんやりと曖昧な過去となってしまう。歓声も聴こえない。

今回自らが構築した過去のプロジェクトイベントのサイトアーカイブを再設置構築することになり、なるほどとさまざまを考え、事実の記録を正確に遺すということの意味にも考えさせられた。
書籍や絵画、彫刻といったものの中には、「旬」を目指す戦略的なものもあるだろうが、そのほとんどは、人間の人生と対を成しているのだから、時間軸を貫くように「置かれる」。いつでも出会うことができる。広げた時間に対して遺される。
歴史の出来事に対する記録も、現在の都合で削除すべきではなく、遺される記録として、次の世代へ向けて「我々はこう生きた」と誠実に置かれるべきだ。時間の経過は、その事実の再確認に新しい認識を与えてくれるものだ。現代はそういう歴史を構築できる時代ともいえる。

obuse contemporary archives 2007~2008


glass.jpg終日ノート端末で仕事をして眠り時を逸し、横にはなったがさすがに重い瞼で小さな文字を拾っている際、片目で辿ると、片方がろくに見えていないことに気づいたが、いつもの長時間業務の眼精疲労と片付け、やがて浅い眠りに落ちた。起きれば、くっきりと見える。
データ移動の為、最近文字が見えにくいと言っていた妹の端末に座り30GBの転送をしていると、キーボードの脇に眼鏡があったので、つけてみると、なんだこれ、なるほどすっきり見える。知らぬうちに草臥れた眼球を、よく見える機能細胞と奉って崇めてきた自身を恥じた。
以前から眼科医の義弟より、そんなに見えすぎるなんておかしいと云われ、学会へレポートすべきなどと笑いあっていたが、なんのことはない、この身体が老化にまみれていると知る。
そのまま仕事机に戻り眼鏡をつけたままでいることに気づき、慌てて電話すると、持ち主は、自分は新しいものを作ったからそれを使いなさいと言ってくれたので、有り難く使わせてもらうことにしたが、本を捲る時だけにしようと、眼鏡は外して、ラップトップを開いた。いずれ眼球の現在経験値を調べて、視度調節した眼鏡をしなくてはいけない。

ラクロスの秋のリーグ戦がはじまった長女は朝5時前に出て行く。1勝1引き分けで3戦目なり。敵をぶっつぶして快勝しなさい。