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まだ小学校に入学していなかった年齢だったかもしれない。叔父に連れられて善光寺脇に仮設小屋が建てられていた見世物小屋に行った記憶があり、子どもの日だから子どもは金はいらないよと入り口で客引きをする男の声に誘われて、蛇女だったか人魚だったかの小屋に入った。金を払わないノゾキが出来ぬよう外の明かりは入らぬよう徹底された薄暗い動物の飼育小屋のような仕立ての向こうに、腰に鯉のぼりを巻き付けた女がいて、天井から落とされた紐に両手で縋って、危うい下半身をゆらゆらさせている。喉を潰した喋り手が延々と目の前の奇異者の生い立ちを喋り続けている。子供心になんだやっぱり偽物かと思ったものだ。おそらく下半身を欠損した身体的な不具者に安い金で演じさせていたのだろう。差別の匂いが濃い時代だった。外へでる際に、ちゃっかりと子どもの代金もとられ、叔父はなんだと憮然とした表情をしていた。
時代を経ても靖国神社の境内に似たような見世物小屋が今もあり、娘たちが是非とせがむのでカッパとかがいる小屋へ入らせたことがあったが、こちらは過去を憶い出したか観る気がせず外で待った。

流れる時代の過渡期に浮かんで消えるキッチュな大衆文化として、地方の鄙びた観光地でよく見かけた大人の秘宝館という猥褻を売りとしたものもそうだが、安易な「見せ物」というビジネスは、ポストモダンを纏って遊戯、娯楽という楽観を象徴する「アミューズメントスペース」へ成り代わったともいえるが、そこには、過去の見世物小屋と同じような浅薄な悪意のようなものがやはり漂っている。
映画館もそのひとつであり、リクライニングがあつらえられて、ヒュージ・バジェットなハリウッド映画を観ることができるが、その内容も、収益を見越した、見世物小屋としての基本である大衆娯楽という浅薄が日ごと強くなるようだ。
いずれにしろ底辺に流れるのは、人間を「騙す」悪意であり、ーこうすれば人は喜ぶーという想定の邪気に、慣れてしまっている。
独りで自立し生活を破綻させるスモール・バジェットを捻出するしかないクリエイターのなかにも、知らぬうちにこうした邪気に染まっている者もいて、ロストクリティカルな奈落でどこか成金を夢見てストリートボードで不良化する子どものようでもある。

そうした邪(よこしま)な、見せようとする恣意に辟易する記憶の累積が、おそらく何も無い、人間とはこれっぽっちも関係のないような空虚で静謐な光景へと立ち止まらせる。と考えれば不思議はない。


Wire in the Blood (2002) / a British crime drama television series
The Echo (2008) / Yam Laranas