歩くだけで

 雨の日の後、空が見えたので、放射線治療を終えて経過をみている叔父の見舞いに出向く途中で車を止め、濡れそぼった林を歩くだけで、身体の軸の歪みが矯正され、皮膚にも張りがでる。ふと立ち止まって眺めるだけのことが瑞々しい。裸でプールを泳ぐような清心が満ちてくる。
 まだ、ぽつぽつと肩に落ちる水滴の数を数えられるほどに雨が落ちたが、見舞いの後も、傘もささずにコートを着て歩いていた。
 函館での仕事の連絡が入り、了解の即答を返してから、ほぼ35年ぶりに北海道の地に立つ機会が訪れたことを、独り喜んで、折り合いがつけば、札幌の伯父宅に顔を出したいと考えていた。季節柄もあり、大袈裟なロケハンなど考えず、まずただ歩きたいものだ。
 最近になって、立ち位置、スタンス、考える土台、知覚する器の状態を、畏まって設定するのではなく、生まれ持った浮浪感、スライドする身体の運動の性質自体が、いってみれば、固有な思想なんだぜといっても、別に恥ではないと思うようになり、何かに切迫されるような観念を都度脱ぎ捨てることだけ戒めると、途端に楽になり、今となっては、つまらない事ごとに、いちいち感情を注いでいたような過去の記述をこそ、恥とみなしている。あれはあれでいいさ。かわいいもんだ。
 できるだけ良い状態とは、歩くことができることという、あまりに単純な答えには、然し、禅問に答えた清々しさと眼の前に荒野が広がるようなスケールがあるわけだ、これがまた不思議にも。