リチャード・ローティも確かに牽引した。もともと合衆国の空間が多種雑多の異種混合の共同体として、前世紀後半を走り抜けた中、プラグマティズムで明快な結果を示すことがコンセンサスとなりえたのだろう。映像や音響の、映画手法、コンサートPAシステムなども、より巨大なスクリーン、轟きながら解像度を保つ音響という短絡指向は、動員数に応じた開発が無理ではなかったこともある。
この国でも人口に応じた、都市インフラというものはあるが、隣の国と同じ開発をすれば、たちまち赤くなるのは仕方がないにしろ、時差を呼び込んで、レアものへ手を付けることを控え、隣の国の次世代型へ移行するタイミングを見計らって、一世代前を安価に手に入れてきたわけだが、葛藤は残った。この葛藤を情緒でカヴァーするという根性は見上げたものだったが、諦めを背負ったような貧しい姿勢が育む卑しさはなかなか消えない。
親たちの世代が食い物の話の中で、これは高級だなどという言葉を使うが、単に値段が張るだけのことであり、では日々低級な生活をしているのか、怒鳴りたくなる。映像や音の世界に現れる、顕著な工学的クオリティーは、時に、例えばコンサート会場の音響体験の次元を変容する力を持ち、演奏者自体も構築された音響空間で未知の経験をする。自らの声が全身を貫いて震える。馬鹿な人間は「俺って凄い」とか思うわけだ。映像を支える新たなカメラユニットによる新しい視覚経験も然り。
いずれにしろ、下降するようなヒタムキさ、只管な態度の背中には、「高級」を憧れている路地裏の子供地味た匂いが漂う。単に「よいもの」とはどういう現れかということを、ネオプラグマティズム コンセンサスを踏み越えて行わなければつまらない。同時に知覚に備わる能力を成熟させる近道の、その入り口はプラグマティズムでもある。
車のスピードメーターの限界速度を走ることができるのがプロダクトの要であり、ボリュームをマックスにして大音響を放出するオーディオシステムは、そのボリュームのキャパ自体、人間の知覚経験の提示想定内にあると考えるのは、少しもおかしくない。
ただし、隣の国で夢中に開発している、得意げな3D映画というのは、見世物小屋の偽物を無理矢理大袈裟に見せられるような感触があり、バタ臭くていただけない。若い人間には、想像力という能力があるのに、これをこけにしているような気がする。年寄りの介護とかに使う方向をみせてほしいものだ。
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