神の眼を真似る。獣の眼を模倣する。小さなロボットデバイスにカメラを取り付け、空中から、また、海中からの視線を手に入れる。偵察衛生や、月面からこの惑星の地表を拡大俯瞰する。様々な視座、視線の発生するスタンスを仮設し、その眺めの場所というものが、光景を支えて、見えなかった状況を見えるようにしているが、実は、個々の人間の眼差しという視線のスタンスほど、わかりにくいものはない。
あなたは、一体何をみつめているの?煮詰まった恋愛のやや疲弊した囁きともとれる問いだが、なかなかみつめているものを明快に示すことはむつかしい。
三日前のこの時刻に何をしていたかを辿るなどする時も、みつめていた光景を探る方法より、前後の出来事の概略から、曖昧に首を傾げつつ多分そうであったとぼんやり推定する程度ではないか。人は絶えず盛んにみつめているわけではないから。
ドラマやスクリプトにみかける、刑事が過去の日時を示し、あなたは何をしていたか?と尋ねる設定がある度に、確信をもって答える姿勢こそ何か妙だと、幼いころから思っていた。
政治家の返答に、記憶にございません。という流行にもなった言い逃れと揶揄された台詞があったが、この返答に正当性はあると、得心を運ぶ響きは今もある。
85mmの重いレンズのまま、眼の前に両手を伸ばして視覚の窓をつくったような狭い切り取りの、而も目的対象を探すようでないシャッターを押すことを続けていると、視座自体があやしくなり、この視線は見えていることと幾分違ったことなのだという体感に支配される。むしろ、撮影された画像を、過去の光景としてみつめて探索し直す際に、其処には、促される視座と、視線があるか?と問うている。更に、選び残るものは、確固とした視座、視線の漲る、コンセプチュアルな画像ではなく、此処に「視線は生まれますか?視座はありますか?」と、広く問いかける性質のものとなる。特定固有の時空にしか存在しない画像が、他の時空での存存を持続するためには、このニュアンスを持つ事が肝心だ。
いずれにしても、この恣意の波にまみれた辿りの、レンズ、カメラという機能と結果が誘導する人間的な運動(解釈)は、どこか無関心の縁を歩みながら子供が熱中する奔放な遊びと、考古学や分析学の蓄積の認識到達が、渾然と同居している。
「みえる」という単純の、実はこれは一体どういったことなのかと、瞼の奥で真綿を締めつけられるような責苦の伴った辿りは、然し、ある時、どういうわけか実に鮮明に直線的に、紆余曲折を破壊する勢いで、ただ単に言葉の輪郭のまますとんと「見えて」しまう。
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