スタティック

 静止しているということは、動的な世界ダイナミズムの中での「反時間」あるいは「反生命」という鉱物のような結節の点、あるいはドット、留まっている態の醸す意識の吸引を思えばブラックホールかもしれない。私は父親の仏壇の正面に私が撮影した彼の横顔写真を全面に貼付けている。2008年初夏の野尻湖畔のホテルのカフェのあの時が静止している。あの時が持続しているという進行形では勿論なくて、静止が置かれて在るだけだ。ものごとを考える時々、静止している悉を手がかりにできるのは、思考がぶるぶると身体のおののきなどによって阻害されずに、静止している対峙物がアンカーとなって震えを抑制するので、こちらは静かに積み重ねたり解体したり並べたりとかが可能となるからだろう。そして静止態のそのほとんどは、何事にも介入されず不変を誇るが、与り知らない時間の流れによってやがて彼方にて物質崩壊する。
 青年の頃、はじめて世界を巡る旅に出た時に、ペンタックスの小さな一眼レフを持って行った。35mmの広角でも把握に不足するヨーロッパの垂直構造は、しかし超広角で記録するような代物ではないと当時は思ったものだ。映像記録の黎明期でもあったので、二度目の長期滞在時には小型ヴィデオカメラを持参したが、その記録を振り返ると、撮影する息づかいや画面の揺れが、当時の身体的な状態や気象などを殊更に示すので、考える基礎たる静止態に負けて、そこから何かを考える気は失せてしまう。これは現在のYouTubeなどにも当てはまるかもしれない。動画は言わずもがな幼少時に開始されたTV放映によって茶の間に放出されその被害に染まって人生をはじめている。共稼ぎの若い両親は村で一等最初にTVを購入していた。親から一日の視聴時間を厳しく戒められていたので、同級生との情報の共有に不足があり、陰で口を曲げていたけれども、今思えば、あれが幼いまま筆をとって絵具を油と混ぜた静まりへ顎を向けた理由のひとつになったのかもしれない。
 静止態は、写真ばかりでなく、そもそも作品画面自体が私にとってはそうであり、こしらえる立体物、工作物、彫刻物なども、鎮座して行為した対象が静止することが、その始末となる。無邪気に過去の写真画像を捲る度、あるいは壁に置かれた静止物としての平面作品を眺める度に、留まっているままの対象と、こちら側の騒々しい蠢きが対峙され、その中間に、なにやら言い難い奇妙なモノが意識として生成される長い時間を過ごしてきた。その意識と今私が示した中間に位置する何物かは、人間の衆生属性が剥がれ落ちた身勝手な高貴さがあり、私に直結した意識ではないように思える。仮に私が近寄って所有を叫べば、それは砕け散って輪郭が振動する動的な世界に埋没し融けてしまうだろう。

 海岸や河原の摩耗の果てを示す柔らかな輪郭の石ころを拾い、持ち帰って置くことで、自然の理の一部であった破片の変哲のない自明な繋がりが途切れ、濃縮した時間象徴の静止態となって私との「間」を生成する。その中間に対していかように振る舞うかは私次第となる。巷では容易に一瞬を切り取る静止画像がぶくぶくと溢れているが、糞便のように下水に流され即座に棄てられている。私にとって写真は拾ってきた石ころといっていい。