山体
所謂ランドスケープとして完結する平面に対象を「描写」するという方法ではなく、「山体」の歴史的な時間と地勢を加えた、現在の自身の解釈を与えて考える目前として、思念を散らかす格好で平面へ関わることはできないだろうかと、その稜線姿態を記号象徴にかりて、まずマウンテンと口にして飯縄山にとりついていた。信濃町富士里あたりからの飯縄山は、季節によっては悩ましげな牛やら女体やらの横臥の姿にみえ、25万年前の成層火山生成と地質の分析、黄鉄鉱鉱山の分布、九頭竜伝説にみる渓流河川への歴史的な人間の水害対処(裾野の三水村は早くから水路開発に取りくんだ)、千年前の外縁聖と考えられる遊動活発な飯綱三郎天狗の伝承、山地僻地交通(海と山)などを手元に集めた解釈を図式する拙さではじめていた。 金沢、福井、新潟糸魚川のフォッサマグナを経る北回りの踏破は、舟が使われたにしろ簡単ではなかった地勢的な場所である戸隠に、平安の時代から人間が岩山を見上げて荷を下ろした。修験の場として女人禁制石を置き、奥社参道左に真言右に天台の末端が枝を張り、鎌倉以降、傭兵ともなる獣地味た汗臭い時代を経て、その獰猛さを讃えつつ恐れた家康は、朱印を与えて擁護する形で傭兵を僧侶へとなだめた仏地と成り、明治の廃仏毀釈で性格転向を余儀なくされた場所という奇異な筋を持つ、そもそもの因は、近場の成層火山でない、数百万年前に海底が隆起した山体そのものにある。30年前に中腹あたりで子供ひとり分の重さの変成した化石岩塊を背負って私は下り降りている。アトリエで子どもたちにそれを描かせながら、これが一体何かわかるのだろうかと、あの時は訝しく思ったものだ。 C.W.ニコル氏(1940~2020)が亡くなった報を知り、彼を誘致した谷川雁(1923~1995)の書籍を書棚に探す格好になり、谷川雁という人が君の生まれた近くにいるよと、鎌倉のお宅で李先生(李禹煥)が私に教えてくれたことを憶いだした。当時の浅薄な私は、谷川雁がハイレッドセンターと活動をともにしていたことなど知る由もなかった。 |