世界静止

 現実世界は個人各々が目の前に目撃しているものでしかないから、「現実世界」と表象する場合、多くの差異を含むものであり、それが例えば、日本シリーズの試合の繰り広げられる球場の場合もあれば、突然の雹が降り注ぎ穴のあいた果実の畑も、逃げようのない現実世界となる。いわば個人的な理由による眺めがつまり現実世界であるといっていい。加えて、目の前の世界の出来事の様子によって、出来事の特異性が際立てば時に事件性を伴い、列車事故に向けられた報道カメラの画像は、出来事の克明な描写をいかに示しているかによって、その機能性を拡張する。事件性とはつまり共同体、共有地に向けた問題提起となり、共有するイメージとなる。然し、写真は、「共有するイメージ」である現実世界ばかりとは限らない。
 現実世界の「事件性」の欠如した画像は、共有すべきイメージとならない。雑誌に掲載されるグラビアも、報道写真も、眺める共有者に向かって発信される種類であり、自然を愛するアマチュアも、カテゴリー分けされた自画自賛のマイノリティーを形成する。それが欲動となるシャッターが押される。同時に、非常に個人的なシャッターが押されることがあるのは、カメラというプロダクトがまず最初に存在するからであり、カメラが在ることによって生まれる固有の断片が固有なる個人の元に脈絡無く堆積する。ただし、この堆積を個人は処理することを知らない。処理とは、アルバムを作って書棚に並べるということではなく、スレッダーに放り込むことでもなく、シャッターが押された理由、撮影によって画像に写されたイメージ、その反復を支える欲望、何が写されたのか、などに言及する術を、通常は持ち得ない。
 この言及態度によって写真が思想となることがある。だが、残された画像(イメージ)は、そもそも一体何かという「写真」自体の形而上学に囚われつづけることがなかなかできないのは、その横で大量消費されるイメージの楽観的な表象認識と廃棄が行われ、同時により高性能の解像度の写真というシステムの開発が進行するからであり、時に、それまで見えなかったモノがみえることもあるからだが、見える「世界」が更新され続けるいわば「時間論」と、肉眼による知覚というフィジカルな認識の揺さぶりが、時代性を伴うことで、「写真」という記録画像の意味の変容を、歴史性と現在認識との間において、未熟なツールとして改竄を繰り返すため、そもそもこれまで見ていた「写真」には、非人間的な現れとしてしかつき合えないという、「拒絶」の性格が刻印されている。
 レンズが光の瞬間、世界静止を克明な視覚イメージに限りなく近寄って遺すという、写真の、カメラも含めた道具と考えると、人間が骨を手にして動物を叩き殺した時、殺すという動機と骨を持つ手首の形状と握ることのできる骨の形状がアプリオリでなかった筈のように、遅延経験知のような、まだ使い方もその意味も知らない、未来からの贈り物のような佇まいを示すことがある。世界静止画像というひとつの凍結したイメージ自体がいまだ解析できない鉱物のような結晶存在として放られたままくっきり見えるというのは、非常に不気味でもある。