隔たり

35年前の記録をみて、記憶も動員してすり合わせ、記憶の持つ甘美な自己完結をそこから切り離して省いてから現れる様相の大きな差異に今更に、あのときが滑稽とみえ、あるいは身に覚えのない異国の熱中にも感じられる現在は、やや冷めたような笑いの中にある。けれども千年以上時間の隔たりのある出自戸籍を失効したかの漢字をつくづく眺めて、最近の変化に自身の老いを重ねるしかない諦めのような驚きとは幾分異なった、そこにおおらかな普遍の横たわることに、逆の意味で感心する。過去と今は単純なつながりをしているわけではないということだ。
置かれたものを眺める。かなり切り詰めたこの手法は、時に未解決の事件を追う刑事の目つきに似ていると何度も思った。ともすれば集中の中、その眺め自体がゆがみ「悪意」に染まりそうな気配もあった。眺めて了解する受け取りにも慎重になり、安易な判断とは無縁の眺めとなるのは、成り行きとして自然であり、同時に光景の中の配置とは本来的に理不尽であることがどうやら腑に落ちた。
とかく厳格な現れのすぐ近くに奔放で崩壊の気配があり、精細な純血が邪な支えを必要としている。数えきれない併置が乱暴にただ在る。
配置を行う。眺められる置く行為の側に立って、世界の成りように従うべきは従って、置かれたものを眺めた目つきのまま、然し行為するのはむつかしい。置くために置くという同義反復の理念化は、観念の外へなかなか飛び立たないからだ。
置かれたものを眺める時、当初はその散乱を眺めているわけではなかった。任意を拾い上げる。関係を探す。レトリックを見いだす。意味を与える。そして全てを失う。
いずれもが、しっくりといかない。ある時、私は任意のものひとつに関心を寄せてはいないと考えた。絶えず複数の複雑に向かっているが、せいぜい三つではないかと考えたのだった。この同時性には頷く検証も得られたが、形式として誂えると、途端に恣意が光景のあるがままを切り裂くのだった。
もともと音読み訓読みとよくわからない漢文が苦手であったので、そのとりつく島のない加減のまま、無闇に浅ましく眺めたことがある。象形イコンという意味の触手を磯巾着のように持った単独の漢字文字が併置されることにより結合し、音声という響きを放って人心を捉えたのだろう。音節と連結されたものが言葉となって残った。が、始源の音は聞こえない。形象のはじまりに音が降り注いだのかわからない。現在の中国語で読まれるものも、原型とは随分違う筈だ。
このところ一気に黄金に色が変わった稲田の広がりの中、矢のような新幹線の車窓から空飛ぶ絨毯に乗っているようだと感じるのは、悠久の時間の果てをこの文字自体に集め寄せているからだと思った。
あまりに特殊なこの漢字ひらがなの象形表意表音混在の翻訳言語である日本語の、扱いのメソッドに秘匿されていた飛躍と把握が結びついたような併置を考えると、思いがけない配置に気づくのだった。
折しも、車内で手にした水村美苗のはじめての韓国旅行というエッセイが、どこかで符合し、朝方の杜甫の漢詩とも並び置かれた、車窓の関東平野を、老眼鏡を外して眺めた。