憖じ俯いて言葉と戯れる時間があるせいか、例えば食材の買い物先で、野菜を胸元に突きつけられ、旨いよ、安いよと面を合わせて声をかけられ、呆然と言葉と表情を失った。日常の簡単な駆け引きを喪失する。売り手の男は妙な男だと云わんばかりの表情を隠さずに横を向き太った婦人に言い寄った。
同じように、数人が語る環に居ることになり、最初から話題についていけない。何を話していいのかさえわからなくなる。そんなことが多くなった。巷で流行るボケとツッコミがわからない。
元来、和気あいあいに意識を緩くもって、半ば聞こえなくても聞こえた風にすることに抵抗があり、初めて会う人間の漏らした吐息に状況の全てを憶測してしまう。逆にそうした繊細を乱暴に剥がし棄てて省きたくなり、出鱈目を叫ぶこともあり、こんな逆上ははたはた迷惑なことだろう。
聴く事に興味がないのか延々と話す人がいて、まるで長い小便を垂らしているのを長い時間みているようだと、呆れるが、そういうこちらには言葉を話すという当たり前な技術を、まともに学習したことが無いような気がする。勿論、この技術には、聴くことも含まれる。
寡黙であることが美徳であった時代もあったが、現代はそんな態度などふっと吹かれて終わりであり、むしろ社会的な人間の弱点であるかもしれない。かといって唾を吐きながら、唐突にその場凌ぎの喘ぎのような転がる自らの喋りに恍惚となる人は何か哀れだ。そんな感想の日々の中、栗原はるみ(1947~)の語りというより、喋りにうっとりとしていた。
人間は知らぬうちにまず模倣する動物らしいので、生存する環境の「話し聴く」環境に依存し、その環境の性質を背負うことから逃れられない。そうした危機感のある直感で、情報を欲望し、現状況の貧しさを克服しようとするが、その逃走力は年齢と共に弱くなる。何もわかっていないのに、わかった顔をして口を閉じることが多くなるのは、瞬発力が失せ、その認識の紆余曲折に耐えられないからでもある。
ラジオから流れるDJのくだらない喋りを聞き、物語の文脈を追い、映像に知覚を預けるのは、腕を広げて受け止めるだけで済むが、外に出て歩き、出くわす出来事に対処する能動の、照応の技術に、日常生活の倹しい日々の他のあらゆる仕事も含めて、熟達するのは簡単ではない。
だが、まがりなりにもすったもんだの生存が続けば、それに培う何かが在る筈で、その何かを知らぬが仏だが、知れば少しは、まともな喋りができるかもしれない。
店の席で耳を峙てると、カップルや家族や老人夫婦など人々の会話が、意味を成さない呻きのようなものにしか聞こえないが、これは世界がとりあえず息災であるということかしら。
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