人間の空間

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学生の頃、Arte PoveraのMario Merz (1925~2003),Gilberto Zorio (1944~)を研究対象にした。ゼミの作家研究発表では、Gilberto Zorioを選び、当時の彼らの空間形成に大きな関心を寄せていた。論述自体は、観客が入室すると、人の体温や吐息、環境に応じて変化する科学的な素材を用いて、時間のながれや、ものの中に潜むエネルギーを形にするGilberto Zorioの文献翻訳に依存し、アルテポーヴェラの文脈を引き寄せるような内容だったと記憶しているが、今おもえば立ち入る空間への関心が先にあったが、言葉にすると浅薄な印象の羅列になったのでその部分には斜を入れた。思索の現場といったニュアンスのあまりに人間的な空間に目眩を覚えたものだ。
 様々な構想実現として思想を牽引する時代 (1970年代)の輸入が、安易な誤訳も含め1980年代初頭に盛んに行われ、無知蒙昧な青年にしてみれば、国内の娯楽や未成熟なメディアと比較するまでもなく、世界を拡張し知性を刺激する手段と飛びついたわけだが、時間の経過とともに、こうした机上の試論をささやかに実現する空間に、なかなかお目にかかれなくなった。それはメディア系インターフェイスが突出し、形成空間が凡庸化している為なのかもしれない。
 都下で、スペースを探してみても、そうした実現を可能としてくれるグっとくる空間は見当たらない。大袈裟で高慢、且つ媚びたようなアミューズメントと成り下がったものばかりとなった。同時に、空間を欲望する思索形態自体も萎え、仮設として持ち運ぶ利便性が先行している。

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 あの回廊。あの路地から。あの地下へ。そうした都市の迷路の中にぽっかり広がる、実験的な空間形成を踏まえた、シミュレーションや3DCGではない体感で手元に集めながら、フィジカルな制作スタンスへ仕切り直すべきと知るに至る。