偶然に時が重なったように、ルネ・ドーマルの完成せずに終わった絶筆の「類推の山」をトイレ、浴槽、電車で辿り、(森敦「意味の変容」には及ばないと憶い出していた)、アレゴリカルな画家たちのインタビューを撮影することで、自らの非寓話性という傾向を新ためて再認識する機会を得ることにもなり、最近感けている静止画像に併置する無関係な断片記述に潜み始めた「寓話」が「描写」を侵犯する不安感の所在を突き止めた気になった。
不可解で神秘的な印象を与えることが多いとされる「寓話」には、イコン(表象)が暗喩する意味性と技法的な手法が味の良いサンドイッチになり、そのバランスに調和を求める傾向があるが、非アレゴリーという「もの自体」、出来事自体にそのまま対峙するこちらの傾向には、眺めと態度と扱いに、決壊と膠着に矛盾するダブルバインドが大きく横たわっている。これは世界の不具合をそのまま示している。
憶い返せば、丁度認識論的に落ち着いてようやくとりかかりはじめた頃は、少し目上の先輩達は皆揃って、ソリッドミニマルなシェイプドサーフェイスに没頭する景色があり、頭を傾げつつ、時代の誤読も加わり、漢詩の併置感をオブジェクティブな見える広がりへなどと出鱈目をもがきながら、「恣意」の抑制の果ての、ともすれば統合失調症に陥る危険もある「この石は何だ」という寸止めに痺れていたから、形象は、気象や地滑りのような出来事以外であっては困るこちらがじくじくと育まれた。
アレゴリーは、技術を深化させる為には都合が良いし、また、技術的なものがアレゴリーに変異していく場合も多い。投入される魂と展かれる共振の振れ幅は、無論個人差はあるが安定的で、魂の注ぎ入れと結果が等価交換される約束を形式が前提的に果たしている。針の触れが、レトリカルな淵へ淀む時、アレゴリーに内在する斥力が、技術へ跳ね返し、否、意味ではなく手法なのだと巻き戻り、あるいは逆に、技術的な手法の妙へ眺めが偏ると、否、実は意味(イメージ)に引き寄せられた結果だと振れ戻ることで、全体の安定を取り持っている。その安定と揺らぎに魅了される魂は、構想する側も受け取る側も、時代の感性のひとつの形として繭のような柔らかさがあって、どのような時代下であってもある種微笑ましい。
唯物的なもの自体、出来事自体という世界感は、無慈悲で冷酷であり、ひとつの現れに血と涙を並べ置く、いうならば非人間的な光景であり、これに恣意的な解釈や捏造を加えず、身体を切り刻むように関心を寄せる者は不幸であるといってもいいけれど、そういう生き方をしてきたのだから仕方ない。今はさっぱりと思える。そして、増々この感触の辺境的な差異感が膨れる実感というものの日々の楔のように執拗な記録は、なぜそうかという自己言及、自己同一を求める青さを一旦潰して、当惑する嘆きのようなものしか手元に無い立ち位置の血の涙のような生が経験するリアリティーをたたき出して、唐突な地平をにらむしかない姿勢倫理のプレテクスト(口実)となる。
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