記憶のレヴェル(原爆の日)

 まだ壮年であると自負もあり、戦時中は若かったけれど大人だった終戦の時30歳の兵士は、戦後50年、1995年には80歳となっており、青年将校の生き残りも70代で、互いに語れぬことを胸に秘めたまま墓に入ったのは、戦時下の記憶が大人の抑圧の記憶領域であったからだろうと推測できる。戦後50年当時は、だから、辛うじて呟かれる大人の記憶が、疎らに特集されるだけであり、その時は、子供の記憶として抱きしめる終戦当時まだ十代の生き残りの声は、子供の無邪気なものとして位置づけられていた。
 戦後64年となり、終戦時16歳の幼さの残るやんちゃな子供の記憶を持つ生き残りが、80歳となって語り始める記憶の無防備は、それが大人特有の当時の抑圧から、幾分解かれたものであり、これまでないがしろにされていた、子供特有のいわば無責任な感想が、むしろ当時をリアルに示すことになる。
 そういう意味で、過去は時代によって語り描き出される様相が変容し、向かう検証の感触も変異する。こうした時空の差異によって炙り出される記憶のレヴェルが、新しい出来事の採掘を可能とし、予想しえなかった溜息のような一部始終が明らかにされることもある。
 1986年の8月6日の原爆の日に六本木でライブパフォーマンスを行っている。その時は戦後41年だった。戦時中のことに関しては無知であり、まだ壮年だった伯父に戦時下のことを尋ねても、話したくないと断られている。当時探求した「悲劇芸術考」とは、つまり巷に蔓延する隠蔽秘匿気質に対する腹立たしさのようなものでもあり、土台流れる血が染まっているのだから、ぬくぬくと奇麗ごとを纏っては生きていけない諦めの宣言のようなものだった。1987年にはこの国の隠蔽の滲んだ各地を経巡る旅にでている。

大位なる寛容は悲劇を起こす tragic tragedy 忌わしき生成の縁 トートロジーの余剰排泄相 不完全な血の律動
原爆元年に遡行し これらを 3に集め置き 許そう 産みたての「湯気」「匂い」「震え」を仮想せよ
異端(はじまりを前にする)のパラダイムが 横たわり 置くこと自体を この還元の内に考察し 放下(GELASSENHEIT)する 
これを悲劇芸術考と呼んだ
此の如く無の場所に於て innerer Sinn と見られた時 前に時空的に特殊であったものが個物として深いものとなる
片石孤雲窺色相 清池晧月輝心
ー 1986 悲劇芸術考リーフレットより