足音の絶えた叢の囁きに

 人の気配の無い、自分の足音も呼吸も人のものと思われない、歩行がただの移動となり、視界が霞がかかったように遠のいたのは、実際の気象のせいなのか確認のしようがなかった。幾度も夢をみているようだとちょうど通り過ぎる頭のあたりに張り寄せた枝を上手に使った蜘蛛の巣を指さきで払いつつ、夢の中の明晰な言語感のようなものが身体から少し離れた場所に浮遊して移動の持続の根拠が一体どこにあるのかわからないままフィルムとフィルムの隙間のゼリー状の時空を泳ぐ心地がしたものだった。少し前に雨が降りそうだと見上げた空が後頭部に淡く不安のように浮かび、既に濡れたシャワールームのような「内部」に這い入ってしまった「間違い」のような選択を、誤解のように取り違えて、立ち止まる度に「粒子だ」と、明らかに自身ではない誰かが呟いていた。単独行の山人の目つきが葉の間に光るようにも思えた。浅い森だが身体には脈絡の無い場所だからだ。などとまだ中央部では観念の支えを必要とした。
 誰もいない筈の森の、思いがけぬほど近い距離で、おぉと声があがり、ばきばきと樹の倒れる音がして、その動きの欠片も目視できないまま耳を澄ますと、また静まりが上下水平に広がり、立ち尽くしたまま動き出す契機を失うような時間があった。身体に散らばる徒労を闇雲に手繰って再び歩み始め、爪先を見詰めるように標高を地図の上では高々二百メートル登り詰めただけで息の上がった谷の上で、谷の下を見下ろすと背後に車の走る音がして、いきなりだなと振り返っていた。途中侵入禁止の印があり、おそらく作業で入った人がいたけれど、こちらにとっては、時々現れるカモシカと変わらぬ存在の唐突さのまま通り過ぎ、人の声に馴染みもしなかった。
 この歩行には理由はひとつもない。根拠も観念も計画も意味も。欲望はむしろ欠けている。見知らぬ街を歩む時、一日もあれば構築された市街地には途端辟易と慣れてしまう感覚がある。それは単にどこでも人の住まう場所は似ているからでもあり、至る所に安易なプラグインが用意されているからだ。関与を否定され突き放されるのは、鬱蒼とした林であったり放られたような河川敷であったり、人気の無い森の中であるから、そうした場所へ引き寄せられるのだろうか。抱きとめられる凹みに帰巣する本能的なものがあるのかどうかわからないが、とにかくこの歩みの傾向はそれとは対極にあるベクトルのようだ。今回は特に顕著な差異を体感しつつ謙虚に従いシャッターを押していたのだろう、露出も絞りも出鱈目でピントも合わずブレたものばかりとなり、でもそうでないとこの場所が催す「異物への排他」感覚の証しにならないからなと頷いた。おそらく今後こうしたものばかりとなる予感がある。そこへは批判のレンズの瞬きの意味がない。
 同時にそこに新たな洗練を考えていた。この国の文脈的な洗練の果てに忍ぶのは、ゲルマンのニヒリズムやミニマルではなく、道教的なメビウスの環であり、挙げ句翻り洗練しないという決心に変容することもあるが、それとは幾分違ったスタンスである、これは洗練ではなくむしろ不浄な「澱み」かもしれない。つくづく生理であっても構わないと続けてきた不用の削除、切断と端正、端的な態度への希求の果ては、つまり時空において揺らぎ散漫な自然(じねん)の理により磁性と斥力の同時性を孕むことを否定できない。気取りや見栄えや自己同一など消えるからであり、言うならば「ありのまま」の率直さで感想成立の手前にすとんと存在の朴訥さをもって準備することが、自分本来の行き着く、あるいは「はじまり」ではないかと。それは今にも踵を返し「さよなら」と別れを言いそうな立ち居でもある。「さよならのはじまり」というわけか。そこには「表現」や「伝えたいこと」など一切ない。故に撮影されたビジョンは、現在、過去、未来が混沌として撹拌された「澱み」となる。これは排泄物のStagnation(停滞)とは違う。口にすることを憚れるSoupといえばよいか。高さの違いで香りも意味も大いに変わる。