困惑と怒り

「こりゃ困ったな」
幾度と無く降り積もるこの一言からはじまる困惑は、年齢や性差、人種に限らず人間を蝕む日々の厄災のようなものとして、さまざまな因となり、時には人も死ぬ。
自分の甲斐性の範囲を超えた「困った」に対峙するとき、安易に浮かぶのは怒りであり、その怒りが不甲斐ない自身の無能を嘆く怒りという自省的なものなら問題は小さいが、環境からの軋轢、抑圧が逆説的なベクトルを促し、自らの無能を他へ向ける倒錯の憤怒というものがあらわれることがあり、これはそうした場合ほとんど自覚的でないので怖い。
困らない人間等いるはずが無いのに、困らないことを立派な態度と誰が決めたのか知らないが、そうした意味のない勘違いが、困ったときの錯乱に拍車をかける。社会が複雑になればなるほど、関係が入り組めば錯綜するほど、「困ったこと」が、その隙間に蹂躙し、その数に比例した錯乱と怒号が溢れるのだとしたら、悲劇というより、絶望的な環境の展望しか残されない。
教条的な訓戒や教えや信仰が、こうしたことへの救済として機能しているのかということよりも、「困った」らどうするかというシステム、インフラの考慮に、真直ぐに対峙して取り組むのが、然るべき在り方であると考えれば、「困らない」システムをつくることではないことに気づいて当然だが、これも「困った」ことに、そうではない。
「困った」というシステムなり環境なりの破綻を、使い古した家具のように捉えて、休日の時間を楽しむ日曜大工の中で、修復をし、磨き直し、再び別の愛着を加えて、翌日からの生活に組み込み直すという態度が、つまり、すべての人間的な生の中で見直されるべき時代となっていると思うのは、極端だろうか。
「困った」ら、怒るのではなく、その困惑を解消する手だての時間を得る生自体を喜ぶべきとは、これも教条的な響きがあるかしら。
故に、開発やすべての何かをつくるクリエイティブな態度にも、どこがどのように不完全であるかを示す事のできる構想でなければ、何も問題ないという大いに問題ある態度が突出し、いずれ誰かが大いに傷つく。