と、ふたつのものを並べた「関係」を示すタイトルは、その関係性という意味で、牧場の牛飼いが乳搾りの時に頭に滴り飛んだ乳の飛沫の光景を想起させたりする。
「帽子、牛乳」というふたつの併置では、相関依存する事よりも、個々の素材をひとつづつ卓上に置くような感覚となり、そのふたつに向けて、比較する、あるいは選択する視線のようなものも芽生える。この時、帽子の色や素材と、牛乳の色やそれが入れられた容器などを巡らせれば、帽子の中に牛乳を注ぎ入れる慌てたような局面も、構成された関係の図として浮かぶ場合もある。
いずれも言語としてはこのようだが、写真記録された光景として考えると、このような端的なものではない。
それぞれが置かれてある状況のディティールが、対象以上に雄弁となり、帽子のかかった壁のひび割れや、牛乳の器に印刷された文字や、机、空間の奥行き、距離、気象や光の行方、視線の位置、色彩、など際限ない記録描写によって、光景はむしろピックアップした対象を打ち消すものだ。
しかし、四角いフレームに囚われているというレンズの宿命により、あるいは人間的な確認作業により、これは整理され、再び「帽子と牛乳」という新しい光景への無関心へ滑り落ち、同じように露出が絞り込まれ、感度も悪くなった薄暗い空間の淡い残滓のような廃棄物となる。
言語が人間の受容感覚に作用することは経験的に知るのみだが、世界の状態は、無論言語からも遠く離れ、認識の届くものではないから、レンズの捉まえた光も、同じく人間とは無関係を誇っている。
光景は「この目の前は、一体何か」という人間的なメタフィジカルな能動的な投げかけでそこに在るのではなく、「This」という現前にすぎない。而も本来的には人間に何も促すことはなく、現前を見いだした人間はその状態に加わることは出来ないのであって、光景に挟み込まれた人影は、そういう意味で人間ではない。
今日明らかになるメープルソープの稚拙は、だから帽子と牛乳というモダンな関係の恣意として際立ち、それは彼のインディビジュアルな権利のようなものとして、恣意の意匠登録あるいは青年の主張と聴こえる。
故に、カメラを持つ人間の歩行のその拙さ、あるいは仕掛けにしか、写真の成立の原理を説明する手だてはない。加えて解釈も、考古学などの検証に似た、可能な限りの分析・解析とした態度のみが有効であり、それ以外は文学の領域となる。
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