律令となれば刑法、音楽では音階、十二律、平均律など、漢詩のパターン、仏教の戒律。物事を行う基準となるものが律とされる。基準そのものを策定することが法であるとして、律は、人間の行動へシフトした位置にあるように思われる。「式」「様」などもあるが、今となって手元に「律」が浮かんだのは、音楽の音高、ピッチに該当する音律への意識追従の仕方のようなものが、画面に顕われはじめたからで、音律を拾うかに断片が作用し合う状態の、律の認識の広がりそのものが、初動創造の探索的未知の淵の歩行開拓(手探り)から脱落する(短絡的解決)ことなく、統合的意訳を都度廃棄する同時性を維持している構造実感がある。
 過去であれば、「、」「。」といった文法を刻む、あるいは音韻の屈託ない文脈的流れのようなものと済ませていたかもしれない捉えが変化して、まさに行為の基準へ踏まえることが吝かでない。筆の齎す悉と工作の示す手がかりの彼岸が、光景の視座に次元一致する感覚として新しく行為の手前で刷新される。といったら大袈裟か。
 
 読物から想起される幻影があり、それらがビジュアルへ統合されない時々を拾い上げていたようだ。寧ろ筆者の書くことの発声に淀みなく流されていくことが読むこととなっていた。併置された視覚「律」はおそらく、「発声・発話」としての言語と似たような揺らぎと流れ着き方を示すのではないか。

 なんとなく焼き鳥の串刺しを浮かべ、あれは一本に肉を突き刺しているので、目的は明快で短絡完結しているので、ここに示そうとするものとは、大きく異なるけれども、喰いたくなった。