カンファレンス

 主に学術的な会議や研究会、協議会、検討会などのことを示すカンファレンスと銘打って、月毎に現代視覚作品を創出する作家諸氏や関心を持つ者(他の立ち位置の方でも構わない)を招き、一応お題を設定し談議するイベントを開催しようと思ったのは、ドメスティックな空間では日常的であるはずの(今時の家族はそうでないかもしれない)、寛いだ、リラックスした状況での、人間のアウトプットとインプットが自然に交錯する場というものが、昨今社会には見あたらないことが大きな理由だった。同時に知り合いに鬱に罹患する者がおり、潜在的にはそれが深層的に広がりつつある実感があり、加えて、職場などの話を聞いても、どれも何やら切迫した残業やらコンプライアンスやらに神経をやられ、疲弊した身体と精神を労りつつ恢復させる場所と機会が、日に日に喪失しているように伺える。稀少な立ち位置を持つ作家の才能は作品のみに在るのではなく、彼らが生存している限り、あまねく彼らの能力を相互理解しながら共有できるものを探る時間があってよいと思われた。

 多様な個体である現代に生きる我々は、似たようなデバイスを使い、ほぼ同じ認識行動を行いながらも、共有するコードやシステムを持つことがむつかしいと考える。或は立場や認識、道徳的な基準や、倫理、宗教的信仰に至っては、マイノリティーを自称するしかない。これは平等にあらゆる情報を取得できる社会環境が齎した錯覚とも云える。そんな中で、創作を行う者は、何処に向ってどのような律を構築し、何を創造しているのか。あるいは、このような混在の社会から、何を見出し、作品はどのように機能するのか。これを考えて既に8年ほど経過した。

 クリエイティブな立場を社会にダイレクトに照応させるには、システムに仕えなければならない。これが駄賃報酬をいただく「仕事」の言葉に由来でもある。創出がその関係の埒外、辺境で行われる時、どのような立場が構成されるのか。あるいはどのような仕組みが新しく必要なのか。

 得てして、新たな仕組み(作品)を社会に出力する場合、無邪気な集合(行動半径5メートル以外は無関心)と対峙しなければならないので、使い古されたテンプレートや言い回し、或は歌舞伎のような娯楽性で表象を底上げし(装飾)、共感のレベルを大衆にむかって忖度するかの所謂「もてなし」的歩み寄りが考案されリスクを避けて実践されるものだが、一時の大量消費の記憶もあることからか、群れ単位(会社など)で蕩尽される記号のレヴェルは益々子供染みていくようだ。二項対立からの離脱や正当性のバイアスなど既に難解な事象として日常から排斥されつつある。理解や関心を学習内包する対象にだけ向けられる個体作家の「創作への没入」的態度が、悪しき選民的なものであると心を広げたところで、現実的にはこまごました自己解説に時間を消費する余裕は彼らにはない。けれども、これが生きていかねばならない辛辣な現代社会である。

 視覚藝術作品を制作し発表し売りさばくことで営むという、一見過去より現在まで常態と伺える、個展などの自主的開催と、企画展参画による作品展というものも、それだけで生存と持続可能性を保持するには、奇異なファイナンスであり、ビジネスと成立している例は際立って稀であり、中小の商店主が日々の売上で生活を立てる工夫のような、瑣末な実践が、作家サイドにも必要と思われるのは私だけではないだろう。

 ここは自己創出の能力のある人間が知恵を重ねる場の構築を、宛らサバイバルの様相となっても、寛いで反復したい。

*スラカン042718 >>