スーパービジョンがあらかじめある場合、仕事は淡い意識を辿るような形をとる。夢の形を思い起こすようなそれは、然し、最終形態に怯えるようになるだろう。どちらかというと、何も決定されていない状態から決起するほうが、窮屈な仕草が、狭い了見というものがとれて、ぼくには筆を持つ必然が生まれる。困難は、そういったよくわからないものを絶えず孕み持つ立場を、均質に反復できるかにある。身からでた錆を処理するのではつまらない。泣きじゃくりながら放つこともあっていい。描くことが辺りを鮮明にするには、そういった単純なダイナミズムが必要でもある。時代は、様々な個に微妙な差異をイメージさせる。この微妙な違いを誤解しないで、いかに印象深く認識し変換するかだ。
簡単明瞭な絵画は、眼差しを限定するように感じられるが、誰にとっての何がそうなっているのかという、問いと混乱を同時に示す。この世紀は、全体が個に積極的に関わりだしたということだった。独りの叫びが、全体の責任のもとでしか有効で無いという錯覚に充ちている。あと半世紀もすれば、倍となる人口を手首にかかえる作家を思うと、狂気以外の何も感じない。結局固有な生きるシステムの問題となる。滅びの気配とはだから、そんな肩に積もる疲労感に理由のひとつがある。全体が手のひらで眺められるそのあとは、整理、集約、統合などではなく、拡散、蒸発、離散へと走るだろう。そして砂漠にでも住処を持つのかしら。漂泊の誘惑は、結構準備されたものだった。
ぼくは、土着の性質に興味を抱くが、民族的な語呂あわせのような、マイノリティー単位の集団性には思うことがない。どのような集団であっても、そこには全体という幻想が支配しており、逆様に閉じている。提携拡張する企業のような形態が、率先するだろうが、企業倫理の乱立はおそろしい。人間性が喪失するに違いないから。
いわゆる地勢、気候、湿度から立ち上がる気配には、作品のシステム構築の上で、考慮しなければいけないことが多く在る。しかし、断層ってのは凄い。
つくらないというこのモンスーン独特の価値意識は、制作しないということでは勿論ない。なにかをするけれど、余計なことをしない。その場を取り繕うようなまねをしない。潔く端正なあらわれを受け入れる。こういった享受自体制度化への要請を含む。これは老成のひとつだと甘く考えたいが、間違うと表現そのものの喪失へと繋がる。つくらなくても構築できる。つくらなくてもみつめられる。といった立場からつくらないという意志をつくる。創作の自由と意欲に無目的に充実できる無知の美術を学ぶ学生が、手にした観念としてはかなり残酷であった。しかし、つくられていない作品を目の当たりにして、何も手につかなくなった状態を想像するのは易しいだろう。つくるということが、観る者に隷属されているということが、つくらないことを示すことによって逆転し、みつめる意欲が、観る者に生まれるようになった。作品は、成立因をめぐって日常への、そのつくられない制作の糸口をさぐるようになる。丁寧に塗られた色の層と、汚い漆喰の壁が等価交換される。時間をかけて練り上げられたかたちから、放置されたものへと移動する。マスキングの境界から、普段のどこにでもありそうな際へと移る。こういった還元行為が、即制作として満ち足りているかというとあやしい。熟成へ至るための快楽の含まれた過程はどこにあるのか。
瞬間認知を生むには、時の風と、それなりの決断を明確に示すことが必要だ。試行としてそういった行為が多くおこなわれ、淘汰されたとしても、熟成のための手段が用意されるべきだろう。でないと茶番となる。連続茶番に身を焦がすのも面白いかもしれないが、絵画がそういった離れ業をもつほど、眺めが単純になりはしないか。しかめずらした道化は、疲労感に溢れているものだから。だが、きりつめようという意識がぼくに絶えずあるのは、なぜかしら。
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