画布

制作に向かう意欲が、老いていく実感とともに剥きだしになる。そういうことはあるだろう。身の回りの整理というよりも、恥を隠す算段に突然振り回されて、清潔な身形を装う土壇場が醜くも上手に演出される。これが半世紀も生を受けた躰ならまだしも、精液のしたたりを両手で塞ぐ、幼さが匂う有様の青年が、躓く程度の些細な出来事で、存在を憂いで見事に消沈し氷水を飲み込む。と同時に偏った老成が瑞々しい捉えたばかりの観念に添えられる。未熟をそのまま放りつけて無責任な厭世しか立場と選べない。またそうしたコトを受け止める社会という器自体の、ある依怙地さが逆に傍観の寛容を気取って、含む事を嫌わない。だが、なにかしらの変容の瞬間、不用を切り捨てる意志が突出してゴリ押しをはじめる。これがまた、こちらの醜い意欲と合致する。集団の目眩のような、癖のような傾向が、いつのまにか染みわたっている。そういう時代と考えて、懸命に励む生活を、遠くから疑いながら眺めている。そんな自身を切り捨てるために、否、切断する意味を加えて、ふたたび、制作をはじめていた。偏執とならぬよう気をつけてできることをしよう。
 本格的に画布へとシステムを洗練したのは、実に10年ぶりのことで、そのあいだにあやふやになっていた知識を直しながら、久しぶりで張るのに苦もあった白いものを、しげしげと眺めていた。ありもしないものを眺めるように、ぼうとして、作法も知らない座ることも忘れたような者が、茶の湯などを思った。利休茶を加えてどこかへ至るのではと、期待すらあった。抽象した象徴として素材自体から造形をはじめた者として、立体造形を横に置いて、仕草の抽象を清潔に顕す仕組みを画布とした。そのほかの、例えば画布の絵画の文脈など断ち切ってもいい。描くという行為を仕草と考える。卓上の静物を描くモランディーの画集を捲る。彼の指先の率直に動く時間が眺められる。