肖像 / ペドロ・コスタより

Pedro Costa(1959~) のColossal Youth から、彼のこれまでの作品からの一徹な文脈もあって過去の累々たる画家の残した肖像画と、それを描く画家の目つきとその生活を、幾度も想起していた。
ー私が使ったのは、デジタルカメラ、録音にはDAT、マイクを1,2本、それに三脚、それだけだった。結局、1時間のDVカム・カセットを320本廻した。私たちは15ヶ月間、週6日、ほぼ一日中撮影し、時にはワンシーンにつき20~30テイクも撮った。
(中略)
私には、ヴェントゥーラと同じ高みにいなくてはならないという強い思いがあった。私は撮影中、毎日起きる度自分自身に言った。この世で私をがっかりさせない人間、いつもそこにいてくれる人間は彼一人だけだと。ヴェントゥーラとヴァンダを、知的で優しくて暴力的で悲劇的な「部屋の英雄」にする必要があった。はっきりさせておきたいのだがヴェントゥーラは、ほとんどの人間よりずっと知的だ。彼のほうがよほど公平だし、信念を持っている。どれほど弱く、貧しく、もろくても、これらの人々すべてには、結束とコミュニティーへの帰属に対する非常に強い思いがある。
ー英雄 ペドロ・コスタの言葉から より抜粋
人間が人間的ではない状況に犯され、不当な力学によって気づかぬうちに自らをも失っている故に、「人間的である人間」と括弧にいれ、本来の姿を特殊として言語にしなければならない。これは肖像のことだ。過去、写真機などが無い、あるいはその映し出した像が信頼できない時、画家はどれほどの時間、対象をみつめることに費やしただろうか?
肖像とは、この人間をみつめる時間の誠実さであり、観察ではない。そういう意味でみつめる時間の蓄積した現実的である「肖像」には、人間的である送り手と対象の実直が示されるので、時間が経過しても、その対峙の克明さにおいて絶えず新しい。
ごく近しい人間を肖像を描くようにみつめているかというとあやしい。否、みつめる必要等無い。日々存在を感じているのだから。と云う言い訳に空虚なものが漂うのは、TV画面を眺めるといった蔓延する仕草の、むしろなにもみつめずに過ごす時間によって、あなたは孤立し、気が振れる喪失の日常に気づかずに慣れているからだ。
みつめる眼差しは時に慈愛に満ち、時には批判的に切り裂かれ、怒りの血で赤く染まりながら、また彼、あるいは彼女の香りが漂いきて涙に霞む。そうした変転しつつ堆積する総体のイメージを、かけがえのない固有の人間の印象としてぽつんと抱く筈なのだが、それを簡単に忘却し喪失する。あるいは無視する悪意に負ける。
だから、私は、肖像をも繰り返し撮影しようと、再び思いを新たにして、
「これはあなたが自分であるとは思えないかもしれないがあなたの肖像です」
と差し出し、もう一度あなたを撮影したいと願うだろう。