行間

充分に教育を受けていることが見受けられる博識というより潔癖の性があるような若い作家のものを辿ると、綿密な説明描写が続き、これが酷く疲れる。ツカレルというより堪える。読み辿ることが苦痛となる。作家自身の世界を丁寧に事細かく提供しようという姿勢は悪くないけれども、その記述には、彼の世界の道筋しか許さない、誤読を拒むような、いわば一徹さで読む者を脅迫するからだ。構築する関係の文脈も頑固な理由で固められ、疑いを差し挟むことができない。最近はこのような説明が好まれるのだろうか? 何も知らない無邪気な幼子であれば、そうした説明ひとつひとつが捏造にしても、口を開けて鵜呑みにできるだろうが、様々な状況を経巡った凡人が年齢を重ねてから、一方的な説明を受け入れるのはむつかしいということもある。
言葉は本来、使う人間の所有する持ち物ではないから、送り手と受け手との間、隙間において自在な躍動を持つものだ。これを隙間なくジグソーパズルのように埋めてほらと差し出されると、受け取ることができなくなってしまう。このところ詩の解釈に関するものと詩自体を辿り、切り詰められた言葉が産む誤読という可能性を幾度も考えさせられたこともある。
翻訳者にもよるが、外のテキストを翻訳する場合も、この弁えが有る無しで、随分偏ったものになる。
言葉の明快さ、明晰さというものに、必ず付与されているものは、あっけらかんとした言葉以外の領域の広さでもあるから、言葉を辿る歓びというものは、言葉の隙間、行間に読み手の自在な創造を巡らせる荒野が残されているかどうかで、随分変わるものだ。ときめきというものも似ている。スポーツができて、声が奇麗で、髪が長くて、爽やかで、云々といった説明で恋人を説明する時も、ときめいている核心については説明できないものだ。つまりこれは知らない、理解できないに近い。
巷の妻が旦那にたいして「ちょっと説明しなさいよ」と詰め寄る場合、懇切丁寧に説明する旦那は、最近流行りの草食系というのだろうか? 世代的なものかもしれないが、こちらは説明する事なんかひとつもないと背をけて寝転ぶほうであり、これもレトリックだけれども、なかなか哀愁に満ちていて悪くないと思う。土台女連のこの問詰めの挙げ句は、健気な説明を理解したいわけでもなく、単に自らをみつめてもらいたいだけのような気がする。よって背を向ける諸々の事情に拠る旦那諸氏は、更に土つぼに追いやられるわけだ。
とこれも、言葉の束縛を受けた記述となってしまうが、感性豊かな作家は、何気ないこうした描写に、実にさまざまな風を呼び込む術を心得ており、その心得が読む度にこちらへ憑依するので、ときめくのだろう。
説明的でない描写を求めるというのも矛盾しているが、世界はもともと単にそうみえるという、きっぱりとした現実感に溢れているから仕方ない。と、再び、そうした宝玉のようなテキストを見つける世界の旅を、ブラウザではじめるのだった。