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破船のゆくえ
明治期の詩人の中で、だれの仕事にもっとも愛着をいだいているかと訊かれたら、いまの私はためらわず衣良子清白の名をあげることになる。
蓆戸に
秋風吹いて
河添の旅籠屋さびし
哀れなる旅の男は
夕暮れの空を眺めて
いと低く歌いはじめぬ
「漂泊」
生涯に一冊の詩集しか、その中にもわずか十八の詩編しかもつことがなかったこの詩人の存在は、今日ではもう忘れられてしまった趣もある。詩史というものが、或る種の連続性の概念を糸のようにとおされた針でしか、その姿を縫いたどられることがなのならば、清白のように、波間のひとところにいまにも消えいるかに漂うばかりの詩人がそこからとり落とされてしまうのは、しかしやむをえないことなのかもしれない。
むしろ私は、清白の詩のそのようなささやかさにまず、心惹かれているのだといった方がいい。考えてみればこの詩人は、死後までつづいて花やかな舞台にあこがれることがなかったのだ。時のはずみのようなものを割り引いてみても、清白の詩は本来、そのささやかさによってこそ生きていたかもしれない、ともみえるほどだ。詩史的な読みこみによってはどのようにも救抜されえない夢の器といったものがあり、清白に寄せる私の愛着なども、そのかたくなな器のうちに吸い込まれ同型の夢となってどこかの海に見捨てられる、という、不思議に秘やかなな愉楽を味わうのかもしれない。
この器は「孔雀船」と呼ばれる。しかし私はこの船が、詩の歴史といえるようなものから離れて穢されず、みずからの純粋な夢のみをひたすら食ってきたなどと考えているのではない。それどころか、このようにちいさくまた孤独な詩集が、通俗詩史的な解釈をくつがえす鞏固な座となることさえ、予感されてならないのである。いやそうしたことよりもまず、どのように純粋にみえる夢も、その時代の言語と、言語を襲う現実からの過渡の嵐とが詩人の身を破って産み落としたものだということを、感覚しつづけておかねばならない。少なくとも、書く手を休めて読む者の、それが第一義というものであろう。同じひとつの嵐のようでありながらたえず別の嵐へと、去らぬままに変貌していく大気を、すべての時代の詩人たちの言語が呼吸している。そのような言語に紛れてなお、詩史的な見取り図からつねに抜けていく型の魂となりおおせたもの、というような意味で、私は衣良子清白の詩業を眺めているのだ。
ー評論・エッセイ / 平出隆詩集(現代詩文庫)より抜粋
伊良子清白(1877~1946) / 「孔雀船」(1906)
伊良子清白 / 平出 隆 (著) (2003)
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