漱石の漢詩を読む / 古井由吉 より


幽居正解酒中忙
華髪何須住酔郷
座有詩僧閑拈句
門無俗客静焚香
花間宿鳥振朝露
柳外帰牛帯夕陽
随所随縁清興足
江村日月老来長
幽居 正に解す酒中の忙
華髪 何ぞ須いん酔郷に住むを
座に詩僧有りて 閑に句を拈し
門に俗客無くして 静かに香を焚く
花間の宿鳥 朝露を振い
柳外の帰牛 夕陽を帯ぶ
所に随い縁に随いて清興足る
江村の日月 老来長し
夏目漱石「無題」大正15年.8月14日
「酒中の忙」は、普通なら、「酒中の閑」でしょう。酒をのどかに飲む、と。陶淵明の境地です。これをあえて「忙」とした。幽居して初めて知った、と。酒を飲んでも、なかなか忙しいものだ、と。
「華髪」は、白髪です。中国では華髪という言い方と、黄髪(こうはつ)という言い方があります。「何ぞ須いん」の「須」の字は、今でも必須という言葉に残っていますが、「俟(ま)つ」です。「…..を俟って……する」という用い方から、必要とする意味になります。そこから、「用いる」「求める」の意に、需要の需に意味が通じるようです。音を介して、意味が相通じる例です。酔郷に住まう必要などない、と。
「詩僧」とは自分自身のことです。「拈」とは「ひねる」です。句をひねる。普通、句をひねるといえば、日本語ですと俳句のことを指します。
「花間の宿鳥 朝露を振い」とは、鳥が飛び回って朝露を散らすことです。「柳外の帰牛」は、水墨画によくある構図です。川か湖に沿う場所、その道に柳が植わっている。柳の立ち並ぶ道のはずれを、あたかも日暮れの頃、働き疲れた牛が引かれて帰っていく。その体を夕陽が照らす、とそういう構図です。夕暮れの、安らかな光景と思ってよいでしょう。
「所に随い縁に随いて」。佳い言葉です。
「江」は河です。江という以上は、どちらかといえば中国風の河を思い浮かべている。日本にあるような小さな川ではなく、長江のような大河を。とうとうと流れて、対岸が霞むほど幅が広い。
安らかな句です。このままに受け取るのがよいでしょう。静寂、閑静の中で自足しているようにみえる。ただし、静寂を思うということと、静寂であるということとは、おのずから別問題です。それを「思う」と、それ「である」とは別です。私たちも少年のとき以来、それを散々に思い知らされてきた。苦い幻滅を重ねて。やがて年がゆけば、そう思う通りになるものではない、とおおむね肝に据えて、その心で生きている。しかしまた、やや年を重ねると、「思う」ということは、すでにいささかは「である」ではないか。
イコールで結んでは語弊があるなら、「である」に似ていると言えるのではないか。
ここに詠まれた穏やかな心象風景が、そのまま漱石の境地とは取れない。続く漢詩をみていくと。それはよくわかります。それでは、思っただけなのか、願っただけなのかといえば、思ったり、願ったりするだけで、いささかなにがしか実現するということも、あるのだと思います。

静寂の境地 / 明暗の頃 / 漱石の漢詩を読む / 古井由吉 より抜粋
*岩波市民セミナー「漱石の漢詩を読む」(全4回、2008年 2/21,2/28,3/6,3/13) が母体