虚を突く

油断したところを攻め込まれるという意味で使われる言葉だが、日々、当惑し、途方に暮れる光景の、写真撮影という再考において、この言葉があてはまる。油断しているわけではないが、別段緊張と準備を日頃周到に行っているわけでもないので、一度口を開けたまま印象も浮かばぬうちにシャッターを切り、その理由を探るようにレンズの残したものを隅々までみつめるうちに、観念で縛ることのできない現れの強さのようなものに、どすんと胸を押されることがある。
しかし、当惑するとは、観念の擦り合わせの後の解釈の懐にすっぽり入らない認識の不適合や、事の解決に困りどうしてよいか分からなくて戸惑い、呆然と言葉を失うことであるとされるが、感覚的には少し違っているかもしれない。この撮影局面は、たまさかの対象との出会いといった全身に受容緊張が走るようなものでもなく、はじめてものがみえるようになった赤子の率直な眼差しに近いのではないか。あるいは目の前の未知のディティールに思わず触れてみたいと指を伸ばす生体の反応に近いのではないか。あるいは、言葉が切り捨てられる、現実の豊穣な冷徹に頭を垂れる清々しさではないか。などと連ねても、いずれの説明も足りない。当惑し、途方に暮れるといった慣用句で状態を説明することができるわけではないということだ。
加えて再考時には、光景というこの身を含み込んでいる世界であるにも関わらず、こちらとの無関係を示し、一切の関連を拒否するような鏡の向こう側の出来事となり、シャッターという恣意の指紋フレームに収まりながらも、人間など無関係という有り様の、人間的な光景という逆説を受け止めることになる。
目玉の網膜の、外へ向けられた光の領域と、内へ繋がる神経組織との差異構造(生物学的に、利己的な生存バイアスに神経組織は形成されるとして)が、この「鏡」のような錯覚を与えるのだろうが、シャッターを押した初見と、平面化された再考時とでは、そもそも光景自体の性格も状態も異なり、撮影初見の恣意と、再考のみつめも、等しくない。
写真は、エピメニデスの、彼が嘘つきなのか正直者なのかを当惑という場所へ放り出す、言葉の平明さに宿る、
ー「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。ー
自己言及パラドクスに似ている。肉体と精神と世界(光景)を幾度も斥力剥離すると同時に、関連を誤解させ、意味を錯覚させ、みつめる行為が把握と一体化するかの混乱を、内部は複雑怪異なひとつの印象として強引にまとめて人間の前に置かれた、知恵の輪というより、パンドラの箱でもあるから、考えれば気が振れるようにできている。


寝入る前に「インドさながらの世界ー文学の翻訳について / 聖ヒエロニムス記念講演 2002年 9/23 / スーザン・ソンタグ」を読み、ゲーテの世界文学戦略がナポレオンの覇権のコレスポンダンスだったというくだりで、睡魔が襲い本を閉じ灯りも消していた。
自らの年齢もわからない人間となり、1週間後のバラエティー番組に出演する為のリハーサルの場にいた。見たことがあるタレントたちの指示されるままに動いて、担当ディレクターから、あなたは裾から中央に出て来たら、左足を6回踏みならせと登場を幾度か繰り返す。こうした世界で生きるのは大変なのだなと思っていた。同じような番組に出演したことのある友人に会い、どうしたらいいと尋ねると、ディレクターの指示に従えば無難に終わるのだと答えてくれた。バラエティーの背景に使うライブインターフェイスの設計をする役所だったので、どこかの研究施設のような馴染みのある大学のような建物の中の一室で端末を使い、キャラクターに対応した関係図がコミカルな幾何学で描かれるプログラムを夜中まで行い、帰宅するために車を探すと、自分のものらしい車がひっくり返って天井が地面に接した状態に転がされている。見回すとあたりに首の長いロバのような動物が集まり、こちらを眺めているので、尋常でない状況と知り、部屋に戻ろうとすると、同じ動物の格好をした女性が歩みを阻んだ。途端に双子の片割れと知ったのだった。荒唐無稽に流された夢のせいかしれないが、漆黒の暗闇の中目が覚めると午前3時を回っていた。
虚を突かれる夢だったとトイレに座った。答えてくれた友人は20年は会っていないしTV番組に出たことなどない。双子の女性も歳の離れた15年は会っていない女性だったと詳細を振り返っていた。夢も含めすべて過ぎ去った出来事は、そうであった事という取り返しのつかない事実であるから故に、呑み込むしか方法がないのだとふいに気づいたような気分になる。シャッターを押す際の、取り返しのつかない、罪を背負うかもしれない後ろめたさが、確信犯として出来事を時間の流れに送り出す仕草となり、繰り返し辿ることのできる鮮明な事実を残す。
あの時はあの時でしかなかったという結節の点である光景に、だから私はいつまでも繰り返し眺めを与える信頼を置き、また同時にそこからでしか得る事のできない荒唐無稽も許そうと思える。
双子とは考えることはなかったと再び15年会っていない女性の顔を憶い出すと、数日前に国籍の違う労働者たちに突然住居を解体されはじめ、使い慣れない英語で抗議する連れ添いが同じ女性だったと、消えた夢の断章が現れた。唐突な関係の物語が紡がれる理由は、おそらくこのところ時間があれば繰り返している過去の光景への眺めの徹底と、数時間前にこれも何度も観ている、21g(2003) / Alejandro González Iñárritu(1963~)を、再び含み込むような姿勢でみつめたせいかもしれない。